“喫茶去”から学ぶ、楽しく生きる術
私は禅宗系の僧侶ではないのですが、喫茶去(きっさこ)という禅語が好きです。
皆さんは喫茶去という言葉知っていますか?有名ですよね。
一般的には「お茶を召し上がれ」という“もてなし”の意味や、単に“茶を飲んでホッと一息つく”という形で理解されている方が多いと思います。
この言葉は中国唐代の禅僧、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の言葉として有名で、その原典は『趙州録』という書物に由来するようです。
仏教学者である小川隆先生の『中国禅宗史』から、喫茶去の元となったエピソードを原文の訳で引用します。
このようなエピソードを元として、喫茶去という言葉が生まれたという事です。
私が面白いと感じるのは、このエピソードや、その解釈ではなく、その後の言葉の使われ方や変容です。
本来、師弟や先輩後輩の間で“喫茶去”という言葉を用いる時は「お茶を飲みに行け、お茶を飲んで目を覚まして来い!!」という相手の怠惰を叱責する言葉として使われていたようです。
しかし、時代を経ると「お茶を召し上がれ」という今日的な意味に解釈され、お茶を飲むという日常の中に深い覚りのはたらきを見る、という意味に捉えられるようになりました。
この変容が面白い!というか人間らしいなと思います。
師匠や先輩が、修行に身が入っていない弟子に叱責のつもりで「茶でも飲んでこい!!(目を覚ましなさい)」と言った言葉が、弟子は「お茶を飲んで休憩しなさい(お茶を召し上がれ)」という“おもてなし的な優しさ”に勝手に脳内ポジティブ変換して、勘違いする様子に、人間が楽しく前向きに生きていく逞しさを感じます。
私は、この弟子の「勘違い力」は「生きる力」に直結していると思うのです。
仏教的にも師匠の意図的にも、弟子の解釈は間違いであり勘違いかもしれません。
しかしその勘違いも、生きること、日々を前向きに進むという意味では正解なのだと思います。
もし、師匠の言葉通り捉えて目を覚ましに茶房に行って、茶を飲みながら「修行中に怠けてしまうなんて、なんて自分はダメなんだろう」と悲観するくらいなら、勝手に脳内ポジティブ変換して前向きに「もてなされている感」を感じた方がよっぽど良いと思います。
正解は必ずしも正解ではない、不正解にも正解があるのだと考えさせてくれる言葉が「喫茶去」なのです。
皆さんはどう感じますか?
まぁ、茶でも一服どうぞ。
続きは随時更新していきます。
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