重なる家々――イプセン『野がも』(東京幕引き手記1|20240621|劇団俳優座)
・『東京幕引き手記』とは
皆さん、こんにちは。
衛かもめ<えい=かもめ>です。
日本語のブログで最初に書きたいものは、この『東京幕引き手記』という、東京で観劇した感想を語るシリーズエッセイです。東京以外で観劇する場合があったら、『出張編』ができるかも知れません。
この『東京幕引き手記』は、以前中国語で何回か勝手気ままに書いたものです。
幕引きの後、その場で受けた感動がまだ鮮明なうちに、すぐ書き記すようにしているので、『幕引き手記』と名付けました。
これから使う言語が変わっても、趣旨が変わることはありません。
これは、一観客としての自分の感想を記すための『手記』です。
既出の解釈や制作側の意図をあらいざらい調べてから書く舞台研究とは違って、この『手記』では、思いついたことをそのまま書き記すため、偶然他人の意見と重なることもあるでしょう。
とは言いつつ、決まった解釈に捉えられず、「それでも私はこう思う!」と言えるような、独自の「何か」を提供したいです。
舞台の魅力は、解釈の自由さによって生まれるものだといつも思っています。
・イプセンの『野がも』
今年、築地小劇場は開場一〇〇周年を迎え、劇団俳優座さんも成立八〇周年を迎えます。このような節目の年に、公演に選ばれたのは「近代劇の父」と呼ばれるイプセンの戯劇です。
この『野がも』を最初の題材として、『東京幕引き手記』という気が向いたら書くつもりのシリーズを始めると、何だか長続きしそうな予感がします。ちょうどよいきっかけだと思って、レビューを執筆することにしました。観劇したのは6月21日のため、今回は冷めた感想を温めることになりかねませんが、どうかご了承ください。
感想を述べるために、必要なあらすじを以下に紹介します。
『野がも』の舞台は、豪商ヴェルレの家と、その施しで生活しているヤルマール一家の家です。ヤルマールの父エクダルは、昔ヴェルレと一緒に工場を経営していましたが、材木盗伐事件の罪を被って投獄され、以後エクダル一家は貧乏になっていきました。
最初の一幕は、ヴェルレ邸の宴会でした。ヴェルレの息子グレーゲルスが、宴会で旧友だったエクダルの息子ヤルマールと再会します。ヤルマールは、結婚して娘を持ち、小さな写真屋を営み、それなりに満足した家庭生活を送っていました。
グレーゲルスは、ヤルマールの結婚相手がヴェルレ家の元家政婦ギーナで、父ヴェルレによってヤルマールに紹介されたことを知りました。しかも、ギーナは父ヴェルレに関係を強要され、屋敷にいられなくなり出ていった過去がありました。
その上、ヤルマールが写真術を勉強できたのはヴェルレが費用を払ったためであること、一般より報酬のいい謄写作業をエクダルに任せていることも、グレーゲルスにある確信を抱かせます。
グレーゲルスは、父のついた嘘を暴き、ヤルマールにその家庭生活の真実を伝えようとします。
次に述べる結末は、結末に関する本当のネタバレになります。続きを読まれる前に、舞台や戯曲を一度ご覧になったほうが良いかも知れません。
さて、正義感に駆られるグレーゲルスの行動は、どんな結果を招いたのでしょうか。
ヤルマールの愛娘だったヘドヴィックは、ヴェルレと同じように視力が衰えていき、しかもヴェルレの遺産継承者の一人とされます。これはグレーゲルスやヤルマールの確信を強めるばかりでした。ヘドヴィックがヴェルレの娘だという確信を。
こうしてヤルマールはヘドヴィックに憤懣をぶつけ、家出をしようとします。
グレーゲルスはエクダル一家の生活を破壊したことに後ろめたさを感じ、ヤルマールたちにやり直させようとしました。彼は、ヘドヴィックに「自分の大切な何かをお父さんにあげたら?」と助言をします。
エクダル老人は、不思議にも家の屋根裏で狩りをしていました。以前軍人だった時のコートを着て、猟銃を構えて屋根裏の中のウサギなどの動物を撃っていました。
ヘドヴィックは一羽の野がもを特別に愛護し、祖父のエクダルに野がもを撃たないよう願っていました。
グレーゲルスは、ヘドヴィックにその野がもを撃って欲しいと考えていたが、結局、ヘドヴィックは猟銃を自分の胸に向け、引き金を引きました。
その銃声を聞いた時、ヤルマールたちはちょうど以前の家庭生活に戻ろうと決めたところでした…
・子供の「親化(parentification)」
ヘドヴィックは父ヤルマールよりずっと大人っぽく、上演に先立ち戯曲を読んだ時、既にこう思いました。
眼が悪くならないように気をつけろと医者に言われているヘドヴィックですが、いつも両親に心配をかけないように元気に振る舞っていました。エルマールは時々写真屋の仕事をサボって「すごい発明」に取り込む一方、ヘドヴィックは写真屋の仕事を手伝い、家計簿の計算もやっていました。
加えて、ヘドヴィックは、いつもヤルマールの態度を気にして、ヤルマールの機嫌をとろうとしていました。
第一に家事や仕事の手伝いまたは代行をすること、第二に自分の感情を殺し、親より安定した情緒を持ち、親を宥めたりすること、この二点は心理学で言う子供の「親化(parentification)」の特徴で、ヘドヴィックは典型的な「親化した子供(parental child)」です。
誰にでも好かれるお利口さんに成長しがちですが、ヘドヴィックのような子供は、自分の感情に対して疎く、限度以上のストレスを背負い込むことがよくあります。子どもの心理的な成長において、親の役割を代行することが健全な成長に繋がるとは到底思えません。
今度の『野がも』は、悲喜劇として上演されています。
冴えない男ヤルマールの幼稚っぷりは、道化じみた演技で表現されています。これは戯曲を読む時には思い至らなかったことです。
一方、今回の上演におけるヘドヴィックには、一人無言でライターをつけるシーンがありました。一番お利口なヘドヴィックは、一人になると火遊びをしているのです。大人っぽさの中に、火種のような、全てを焼き尽くす災禍の元が潜んでいるように読み取れます。
この不穏な種を持ち続けるヘドヴィックは、やがて家ごと破壊することになります。
・重なる家々
ヤルマールの家には、居間のほか、グレーゲルスに貸している部屋と、父エクダルが猟銃を放って動物を撃つ屋根裏部屋があります。
エクダルが孫娘たちに狩猟場とされる屋根裏を案内する時、照明が暗くなり、屋根裏部屋を居間と同じ舞台空間で表現しています。
また、第一幕では、豪商ヴェルレ家の宴会場も同じ空間で表現されています。宴会に使ったテーブルは、次の幕でギーナたちが切り盛りして家計を計算するテーブルになります。
つまり、この舞台では、ストーリーの中の三つの空間が重ねて表現されています。
では、重なる空間は、どのように機能したのでしょうか。
第一に、裕福なヴェルレ家と貧乏なエクダル家を重ねることで、その裕福と貧乏とは因果関係にあることが強調されています。エクダル家の生活の現状は、ヴェルレによって決められることも想起されます。両家の社会階級はかけ離れていますが、実は見えないところで強く結ばれています。
第二に、戯曲では登場しないはずの人物は、その場の会話に無言で立ち会うことをします。例えば、グレーゲルスが父ヴェルレとエクダル家の居間で口論する時、ギーナはテーブルに立って跪き、無言で立ち会いました。その時の居間では、実際ヴェルレ親子しかいないはずでした。
もともと出番のない彼女の身体がテーブルの上で展示されることで、彼女がヴェルレ親子に翻弄され、物扱いされていることが象徴的に可視化されています。ヴェルレと関係を持つのは彼女の意思ではないため、グレーゲルスに憎まれるのもヴェルレ家の親子関係が飛び火したからです。グレーゲルスの母が重病の時、父ヴェルレがギーナと関係を持ったので、彼はギーナを敵視して責めていました。
第三に、今回の上演では、舞台空間がヴェルレ家に逆戻りすることもありました。役者が足りない場合、『野がも』の第一幕を削って上演することもあります。しかし今度の『野がも』では、宴会の参加者たちを一度でなく、二度も登場させ、無言でヴェルレから札束を受け取るシーンを加えました。
もしかしたらヴェルレの隠し子はヘドヴィック一人ではない、とこのシーンを見て思いました。そうすると、自分の正義に徹したグレーゲルスは、事実の一面しか見えていません。父の犯した全ての罪を捌けないグレーゲルスは、彼の思ったような正義や公平ではなく、私情で動いているということになります。
・見えないものを見る
ヴェルレ家とエクダル家が重なることで、観客は登場人物の見えないものを見ることができました。それはただ舞台上にいないはずの人物を見ただけではなく、ストーリーの深層に潜む因果関係をも観測することができたということです。
2022年に観たNational Theatre Liveの『ロミオとジュリエット』では、ジュリエットが一人で駆け落ちを決心する場面にも、物陰に立つ色んな人物が見えていました。モノローグが「誰かに向けて言う」に変わったことで、新しい意味づけが生まれました。
観客が見るのはジュリエットの考えそのものと言ってよいでしょう
イプセンは家庭生活を題材に、問題を提起するような戯曲を書き続けていました。その問題に対して、劇中にはっきりとした答えは必ずしも存在するとは言えません。
あくまでも個人的な感想ですが、今回の演出も、その多義的なところに近代性が見られたと思われます。
ここまで書いて、どうやら『野がも』の感想を温めることができたようですね。
では、また次の幕引きの時にお会いしましょう。
衛かもめ
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