【映画】原作者と監督の作家魂が炸裂!大林作品・バンド・男子の青春…あらゆるジャンルの傑作『青春デンデケデケデケ』は夏がくると観たくなる
誰にでも「デンデケデケデケ」はある!
【青春デンデケデケデケ】
(1992年/日本/監督 大林宣彦)
■ジャンル/青春、音楽、バンド、郷愁
■誰でも楽しめる度/★★★★☆(ノスタルジーな雰囲気OKの人に)
■後味の良さ/★★★★★(いいもの観た!という気になります)
(個人の感想です)
※以下、映画の内容にふれます
******************
■夏と学校祭の匂いで思い出す「バンドやろうぜ!」の傑作
最近、「学校祭もの」というジャンルを勝手につくり、頭のなかで名作を並べている。「高校生」というジャンルでもいい。やろうと思えば自分たちだけで何でもできるくらいに成長した10代が、大人になる一歩手前で「そのときのすべて」を出し切るイベントのひとつが高校の学校祭だと思う。だから学校祭を描いた映画には名作が多い。
この『青春デンデケデケデケ』のクライマックスも学校祭だ。そのシーンは後半にしか出てこないものの、主人公たちが組んだバンド「ロッキング・ホースメン」の最初で最後の晴れ舞台として描かれる体育館でのライブがもう、熱い。心を揺さぶるものはいつの時代も変わらないんだなぁと再確認できる。
さてこの映画、舞台は昭和40年代の香川県・観音寺市。高校進学を控えた春休み中の少年・竹良(たけよし)くんは、ある日ラジオから流れてきた「デンデケデケデケ~!」というサウンドに電気的啓示を受ける。これは当時流行していたベンチャーズの楽曲「パイプライン」のイントロで、その瞬間からロックの虜になった彼は、親から勧められたバイオリンをあっさり手放し、「バンドやろう!」と心に決める。で、とりあえず始めたのが髪をのばすこと(大事だね)。
■お金も楽器も練習場所もない、あるのは電気的啓示だけ
ちなみに竹良くんは「ちっくん」とみんなに呼ばれているのだけど、このちっくんが素朴で愛嬌があってとても可愛い(男子高生を可愛いと言ってしまうのもなんだけど)。
演じているのは今ではいろんな名ドラマのバイプレイヤーとして活躍している林泰文で、数十年経ったいまでも「あ、ちっくんだ」と思ってしまうくらい「ちっくん」のままなのである。これがまた嬉しい。
さて、高校生となったちっくんは友人3人に声をかけて念願のバンドを結成・・・したはいいものの、楽器もなければお金もない。まずは夏休みを返上して地元の工場でバイトに明け暮れ、楽器店のおじさんに「勉強して(安くして)」もらい、なんとか楽器をゲット。
さぁ、ようやくバンドができる・・・と思いきや、今度は練習場所がない。メンバーの1人、お寺の跡取り息子である合田富士男くんの家で楽器を鳴らせば、富士男くんの父である和尚のお経と丸かぶりして「うるさい!」と追い出され、寺の階段下で演奏すればゲリラ豪雨に遭い、音を出すことすらままならない・・・のだけど、これがまた苦労という感じがまったくなくて、楽しそうなのだ。すんごく楽しそう。
彼らが奏でるベンチャーズと、街に流れる当時のスター橋幸夫の歌謡曲、和尚によるお経のサウンドが交錯するシーンはもう、笑うしかない。編集が神すぎる。
そんなこんなで、頑張っている彼らの評判は次第に広がり、メカに詳しい「しーさん」という同級生がアンプを手作りして技術面からサポートしてくれたり、学校の先生が洋楽の楽譜をくれたりして、どうにかバンドらしくなっていく。
2年生の夏休みにはメンバーがそれぞれ親に「いい子でいます」という誓約書を提出し(大事だね)、ウキウキと電車に乗って渓谷でテントを張って合宿まで実現。そうして少しずつバンドとして成長していくロッキング・ホースメン。いやぁ、青春。
■バンドを見守る街の人たちが温かい
いいな~と思うのは、彼らを大らかな愛情で見守る親やきょうだいたちだ。時代のせいか土地柄のせいか、みんな、なんやかんや言いながら応援してくれる。「好きなことをしたらええ」という空気が、なんというか、もうそれだけで宝物のように輝いているのだ。
それぞれの親やきょうだい、部活の顧問になってくれる先生、デビューステージの場を提供してくれる店の人。子どもが何かを始めたとき、最初は「ただの遊びでしょ」と思っても、真剣に続ける姿を見れば想いは伝わってくるものだと思う(ただし真剣であることが条件)。
私がこの映画を初めて観たのは高校生のときだけど、あれから30年経って親の立場となったいま、「子どもが何かに夢中になってそれを自分のものにするには、周囲の理解が絶対に必要」ということを痛感する。身につけたものが将来役に立つかどうかなんて二の次で、大切なのはまず人としての幸福度なのかもしれない。
■大林宣彦監督の編集がキレッキレ
――話を戻し、この映画がただの「バンドを頑張る高校生の話」なら、一般的な良作という評価で終わっていたかもしれない。
すごいのは、大林監督ならではの映像の面白さと演出のキレだ。もう、キレッキレにキレている。
たとえば、映画全編に流れるちっくんの「語り」に合わせて繰り広げられる、素早い場面転換。ちっくんが「もし僕が昔のサムライなら・・・」と語ればサムライ姿のちっくんが急に現れ、「もし僕がアメリカの女の子なら・・・」と語ればちっくんはミニスカの金髪ギャルに変身。かなり思い切っている。「んん?」と目を奪われるシーンが多く、思わず笑ってしまい、スピード感があって飽きることがない。決してのんびりムードの、ノスタルジックなだけの映画じゃないのだ。
そしてユーモア満載の会話も魅力のひとつ。特に第2の主役的な存在感で物語を引っ張っていく、合田富士男くんがいちいち面白い。
寺の跡取り息子だからなのか、本人曰く「一度死にかけた」からなのか、かなり老成していて中身がオッサンの富士男くんは、奥手のちっくんに半強制的にエッチな本を貸したり(笑)、メンバーの恋の相談に乗ったり、ちっくんに想いを寄せる女子生徒にアドバイスしてちっくんとのデートを演出したり・・・。
こういう“どっしり”とした友達が1人いると、実際頼りになるだろうなぁと思わせてくれる(絶対に人生2周目以降)。
■そして最初で最後の学校祭ステージが開幕
そうしていよいよ高校3年生になり、学校祭がやってくる。
デンデケデケデケに啓示を受け、とにかくバンドやりたい! という情熱だけで突っ走ってきたちっくんのロッキング・ホースメンもいつしか学校、いや街の人気者となり、あの人もこの人も体育館に大集合。ちっくんの母親は着物で学校祭にやってきて(涙)、最初で最後の晴れ舞台の幕が上がるのだった・・・。
――と、どんな学校祭になったのかは観てのお楽しみ。
物語はこれで9割方終わりなのだけど、この映画を傑作たらしめているのはここからの15分だと思う。
学校祭が終わってメンバーがそれぞれの道を歩み始めるなか、バンドは事実上の解散。物語でも現実でも、祭りの後は寂しいものだ。熱い時間を過ごした後、心にどんな区切りをつけるかで、その後の生き方が変わってくる。人ひとりの人生が小説なら、この行間は無視できない。
心の整理がつかないちっくんは1人で家を出て、バンド思い出の地をめぐる。そして結局、寂しさを抱えたまま帰ってきた彼を待っていたのは・・・。
■祭りの後の寂しさもチカラにかえて
最後にバンドメンバーがちっくんに贈るプレゼントが、とても粋で、尊い(たぶん富士男くんのアイデアだろう)。
このシーンは当時高校生だった私を号泣させた。そして思った。「もしもこの先、人から良い影響を受けたら必ずその人に『ありがとう』と伝えよう」・・・と。
そしてこの仲間からのプレゼントによってちっくんは、「自分にとってバンドとは、音楽とはなんだったのか」ということにはっきりと答えを見つけ、この先の未来へと旅立っていく。
ちっくんの、最後のセリフがまた胸に染みる、これ以上ないラストシーンだ。
――あぁ、よかった。
「いい映画を観た」という満足感が体じゅうを満たしてくれる。
この映画、叙情的なシーンと、ポップでユーモラスなシーンのバランス、独特なカメラワークと切れ味の良い編集、全編を盛り上げる名曲の数々など、じつはとても要素の多い作品だと思う。これらを破綻なく盛り込んでひとつの作品に仕上げた大林監督は、言うまでもなく巨匠だ。並大抵じゃない。
ちなみに多彩な楽曲を絶妙なタイミングでちりばめ、音楽映画としても元気が湧き出るこの作品、音楽監督はジブリ作品でおなじみの久石譲氏ということで、これも納得。
■原作者と監督の作家魂がここにある
じつはこの名作が世に送り出された背景には、直木賞を受賞した原作小説の魅力を「そのまま映像化したい」という意見をきっちり通した大林監督の英断がある。
このエピソードはDVDの特典映像でも監督と原作者・芦原すなお氏が対談で話しているのだけど、文庫版の原作『青春デンデケデケデケ』(著者・芦原すなお/河出文庫/税別490円)に掲載された、大林監督による解説にも同様の内容があるので、いまはそれを参考にして書こうと思う。
解説によると当初、芦原氏のもとには既に数社から映画化の申し入れがあったものの、企画書を見ると内容が改変されていたので、返事ができずにいた。それは「少女スターによるマドンナ役の配置と、讃岐弁ではなく関西弁か標準語にする」という2点。
――いやもうこれは、ありがちな話だなぁと思うけれど、それら企画書を見て大林監督はこう考えたそうだ。
大林監督は解説でこの小説のことを〝発明〟と書いている。まさにその発明部分を消して映画化しようという企画が上がってきたのだから、原作者もウンと言えるわけがない。
■役者たちは観音寺の高校生そのものになりきった
なぜ作家性、作家魂を取り除こうとするのだろう。万人受けを狙う発想は商業的にはわからなくもないけれど、芦原氏の作家性あってこその原作小説で、この味わいこそが唯一無二、それでヒットしたから映画化するのに、作家性を取り除いたら意味がないじゃないかと思う。
そしてそれを充分にわかっている大林監督は、人の作品の根幹を理解して、自分の作品のように大切にすることができた。改めて、こんな素敵な映画監督が日本にいたんだな・・・。
当初の企画が通っていたら、私はたぶんこの映画を1回しか観なかったろうし、DVDも買わなかったし、人に勧めることもなかったと思う。
文庫版のあとがきから、最後にこの部分を引用してそろそろ終わりにしたい。大林監督によるこの文章を読むと、なぜ自分がこの映画に心を奪われるのかがわかるし、その心意気にジーンときてしまう。
■デンデケデケデケは共通言語?
それにしても、自分にとってのデンデケデケデケってなんだろう、と改めて考えた。
映画好きの友人と話すとき、このデンデケデケデケは共通語のようになっていて、「こないだ久しぶりにデンデケデケデケなことがあって・・・」「あぁデンデケデケデケね」という風に使うのだけど(笑)、たとえば辞書に入れるとすると、こんな感じ。
【理屈ではなく、天から降ってきたような電気的啓示として、それをやるしかない、心から好きが溢れて仕方ないという体験、体感、現象、行動原理】
――と勝手に作ってみたけれど、自分にとってははて、なんだろう?
やっぱり映画とミステリーかもしれないな。
あるとき「デンデケデケデケ」を日常的に使い過ぎて一般的な言葉との境目がわからくなったので、「もしかしたら世の中の大半の人が知ってる言葉だったりして」と期待を込めて手持ちの古い辞書を開いてみたところ
――「てんてき」の次は「てんてこまい」だった。
『舟を編む』のマジメさんに辞書掲載をお願いしたいなぁ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?