〈手記1〉余命ゼロの姉、スローな調停で子に会えず、無念死[前編]
※数字や名前は架空のものが混在していますが、ほぼ実話です
※親権問題について考える前に、親権以前の問題について考えていただけたら幸いです。離婚や親権の話にすら行きつかず、子どもに会えないまま人生を終えた親の話です
[1]姉の年上になった日
「日本の空は電線が」と憂いた君の美的センスその空へ逝く
令和が始まり、しばらく時間が過ぎたある日、私は姉の生きた年月を超えて生きていることに気づいた。
姉の、年上になってしまった。
それからは、姉が生きたかった「明日」を日々生きている。
もし神様というものがいるのなら、ずいぶん私に複雑な試練を与えたものだと思う。――特別な信仰は持っていないが、あれからずっとそう考えている。
大切な人が病気になって、悲しみに暮れる人間は数え切れないほどいる。だからその点は自分が特別な体験をしたとは思わない。
が、そこに夫婦の不和が起こり、母と一人娘の離別が起こり、面会交流を求めた調停が起こり、あり得ないような文書のやりとりが行われ、なんの進展もないまま姉の命が消えていく―無念死していく―様子を見ているしかなかった…と人に伝えたら、少しは「なかなかない体験をしたね」と言ってくれるだろうか。
実際私は、ほとんど味方のいない姉のそばで、心情的には一番近い存在として姉を支えながら、調停においては部外者として陳述書を書き続ける以外にできることがなかった。
調停と、死。
最愛の子どもに会えないまま、誤解され嫌われたまま死んでいく一人の母親を看取るのは、なかなかハードな体験でした。神様。
[2]はじまりの食道ガン
4歳年上の姉、皆川梨花子。
最初は喉の違和感だった。近所の内科で逆流性食道炎と診断され通院していたものの、一向によくならず、胃カメラを飲んだところかなり進行した食道ガンが見つかった。
40代前半の女性としては多くない病気だったので、医師も「まさか」と気づくのに時間がかかったのだろう。
それが平成26年暮れの出来事で、姉(と私)の住んでいた地方都市・A市に食道ガンの名医がいたため、年明けから入院。4カ月間の放射線と抗ガン剤治療が功を奏し、腫瘍は手術が可能になるほどには小さくなった。
姉の夫・秀樹さん―私にとっては義兄―によると、かなり難しい手術らしかったが、ひとまずは無事に成功し、体力が回復した春に退院。「この先どうなるか保証の限りではないが、定期健診で様子をみましょう」と主治医に言われ、夫と一人娘のすみれとの、家族3人の生活が姉に戻ってきた。
すみれはその春から小学2年生。まだ母親が必要な年齢だった。
退院した5月は、そよ風が心地良く、土のにおいがして、日なたで大きなタンポポが揺れていた。
姉にとって特別な日はいつも晴れていたような気がする。
私もあの頃の、陽光に照らされた姉の笑顔を覚えている。すみれも笑っていた。
――それだけでも、本当は奇跡だったのかもしれない。
[3]姉の困った性格
退院からしばらくたったその年の初夏、姉の家では大いなるもめごとが起こっていた。
まず、姉の入院中に義兄が仕事を辞めていたことで、「これからどうするの?」と姉が激怒し、ケンカが絶えなくなっていた。そして求職活動をしていた義兄が「一緒に自分の実家、M市へ行こう。実はもう就職も決まったし、M市でまた良い病院を探せばいい」と告げ、姉が拒否したことで収拾のつかない事態となっていた。
M市は、私達の住むA市から電車と飛行機を乗り継いで5時間ほどの場所にある。都市の規模としては同等と言っていいが、義兄にとっては故郷ということでM市の住みやすさ、働きやすさは間違いないものだっただろう。
姉一家はすみれが2歳の頃までM市に住んでいた経緯もあり、この転居は実質的には「戻る」ことになるのだが、姉は「絶対に行きたくない」と主張し、大ゲンカに発展した。
「沙世子聞いて。それで腹が立って私、『ねえ、また無職なの⁉』って言ってやったんだ」
――とは姉本人が、一緒にケーキを食べながら私に伝えてきた言葉である。
さすがに驚いた。
義兄が姉の入院中、すみれの世話と仕事の両立、妻の病気への不安から鬱状態になり、退職せざるを得なくなったことには私も同情していたからだ。
我が家でも冬休み中に2週間ほどすみれを預かったが、当時私は5歳と1歳の子ども達をワンオペで育てながら激務の夫も支えており、義兄に対してそれ以上の日常的なサポートがなかなかできなかったことは申し訳なく思っていた。両親も高齢で、頼るのは難しかった。
「お姉ちゃん、それはちょっと…。秀樹さん、お姉ちゃんの入院中大変だったはずだよ」と言ったが、死線を超えたばかりの姉にそれ以上の苦言を呈するのは難しかった。
気力的にはぴんぴんしていたが、体はガリガリに痩せ、およそ健康体に戻ったとは言い難い姉。そして何より、姉は私のことを「数少ない理解者」と思っているであろうことを、私は自覚していた。
実際、姉がもともと夫の転職の多さに悩んでいたことや、体に不安を抱えた状態で故郷のA市を離れたくない気持ちも理解できた。
――しかしそれでも、この気の強さには義兄も参っていただろう。
姉のこの発言を、何人かの私の友人に話したら、大半が「まずいったんは…入院中はありがとうって言うかな…」と驚いていた。さもありなん、だ。
「頑固で気が強い」と思われがちな姉だが、本当は繊細で感じやすく、生きづらいところのある人だった。華やかで、絵や洋服など美しいものが好きだったが、それが高じて自分にも相手にも理想を求める性質があり、夫に対してだけでなく、「あの人はどうしてもっと頑張れないの」と怒っている姿も見たことがある。
ただ、私は知っていた。
愛情深くて曲がったことが大嫌い。感受性が鋭すぎて人一倍傷ついてしまうから、樹液のようにその分、怒りの感情を発出して自分を立て直そうとする姉を。
そんな私でも、最近の生活について詳しいことは知らなかったのだと、後から理解した。
姉は育児や日々の生活で行き詰まりを感じると、昼からお酒を飲んでいたらしい。酒量が増えていることを義兄は案じ、注意もしていたが、姉は反発。食道ガンとわかった時、医師から「飲酒の影響は否定できません」と言われ、一度は義兄に「ごめんなさい」と頭を下げて泣いたらしいが、何人かから「お酒はもう…」とやんわりたしなめられると、「どうせ私が悪いんでしょ」とまた頑なになっていたらしい。
[4]後悔のはじまり
M市に行く、行かないでもめている間、しびれを切らした義兄は姉に無断でマンションの退去とすみれの転校手続きを進めていた。そうしてある日、「夏休み中に自分とすみれはM市へ引っ越す。君がどうしても行かないと言うのなら、両親のいる実家で暮らすといい」と姉に最後通告をした。
姉は激怒し、「行くなら一人で行けばいい。私はすみれと離れたら死んでしまう」と猛抗議したが、どうにもならなかった。
この話を後で私から聞いた友人の何人かは、「自分なら、悩むけど…一緒に行くかも…」と言った。
確かに私自身、同じ立場なら夫について行ったと思う。夫の退職は自分の病気が要因でもあり、新しい仕事が見つかったのなら心機一転、それもいい、と考えたはずだ。
――ただそれは、夫婦仲が悪くない場合だ。そして、恐怖を感じていない場合。
わかりやすく「不安だ」「ありがとう」「ごめんね」と言えない姉の心のうちは、誰よりも恐怖でいっぱいで、闘う必要のない妹や親友のいる故郷、自分を回復へ導いてくれた病院から離れたくなかったのだろう。
徹底的に誤解されやすく、損な性格の人だった。
それが、ボタンの掛け違いのように少しずつ望まない結果を招き、もう元へは戻せない形に崩れていった。
結局、両親と姉、義兄の4人で話し合った結果、姉は泣く泣く、義兄が提案する次の条件をのんだ。
(1)M市での生活や仕事に慣れたら、1年後を目途に必ず梨花子を呼ぶので、また3人で暮らす。それまで実家で体力回復につとめてほしい。
(2)すみれとは毎日のように電話で話せるようにするし、長期休みには必ず遊びに連れていく。
(3)生活費として困らない金額を毎月振り込む。
後からこの話を聞いて私は、「お姉ちゃん、これなら大丈夫じゃない?」と励ました。本心だった。夫婦関係がそこまで悪いと思っていなかったし、何より体力回復に専念した後、またすみれと暮らせるのだ。そこまで悪い話じゃない。
だが、それに対して姉は「…信用できると思う?」と暗い顔で返した。
「信じようよ、お姉ちゃん!」
――この時の私は、家庭裁判所とか、離婚調停とか、子どもとの面会交流とか、片親疎外という言葉とか…そういったものに疎かった。
考えてみれば、運良くそうしたトラブルの少ない人生をおくってきたのかもしれない。
私は姉思いのフリをした、ただの能天気な世間知らずだった。
――後悔している。
[5]すみれとの別れ
こうして平成27年7月の終わりに、義兄とすみれはM市へ引っ越した。
空港で姉がすみれを抱きしめて「また冬休みに会おうね。遊びに来てね」と言うと、小さく「うん」と頷いたという。
すみれ、小学2年生の夏。
この時のことを後ですみれは、家庭裁判所の調査員に「仕事の都合で引っ越す、転校するってこと以外、パパからあんまり詳しい話は聞いてなくて、ママは病気だから飛行機に乗れないのかな…って。でも、また一緒に暮らすんだろうとは思ってた」と話している。
姉は家族3人で住んでいたA市から、隣町にあるS市へ引っ越し、私達姉妹の両親が住む古いマンションの一室で暮らし始めた。ともに70代の両親は、ある意味出戻ってきた長女と淡々と暮らすしかないようだった。
両親は姉を大切に思っていたが、すみれの父親が勤労意欲もあり、すみれを育てる気持ちがある以上、自分達に出る幕はないと悟っていた。
私もちょこちょこ実家に顔を出したが、姉は一度に食べられる食事の量も増えている様子で、母と買い物や散歩に出歩いたりと、体力的には順調に回復しているように見えた。
ひとまずはこれで良かったのではないか…と少し安心し、私は姉に本や食べ物の差し入れをしたりしていた。姉が元気になり、来年になれば…すみれともまた一緒に暮らせるだろう。
ところが1カ月ほど過ぎたある日、姉からきたラインを見た私は愕然とする。
「沙世子…すみれから電話がこないの。私から秀樹さんの携帯に電話しても、『すみれが恥ずかしがってるから無理だ』の一点張りで…」
――驚いた。てっきり毎日のように電話で話していると思っていたのだ。
「え…じゃあM市に行ってから一回も話してないの?」
「うん…一回も」
「まあ…すみれが本当に恥ずかしがっている場合もあるよね…」
…とは言ったものの、言い知れぬ不信感が湧いてきた。
もしそうだとしてもこの状況で、「そんなこと言ってないで少しでも出てあげて」と父親が子どもを説得できない…そんなこと、あるだろうか?
大病を患い、最愛の我が子と離れて暮らす母親にとって、それがどれほど元気の源か、わからないはずがない。
数日後、しびれを切らした姉は夫に電話し、「次の連休、私がM市に行くのですみれに会わせてほしい」と頼むと、義兄は「ダメだ」と言った。
「すみれは君を嫌っている。会いたくないらしい。やっとこっちの暮らしにも慣れたから引っ掻き回さないでほしい。どうか放っておいてくれ」
取り付く島もなかった。
これを聞いて姉はもちろん、両親もパニックに陥る。めったに人の悪口を言わない温厚な父は、ぽつりと言ったそうだ。
「なんだそうか…それじゃあ、俺たちは騙されたんだな…」
[6]「梨花子さんは精神的に不安定」
それから1カ月の間は、かなりバタバタした。
姉は自分で「家族の問題」に詳しい弁護士を見つけて契約し、夫に対し「子との面会交流」を求める調停を申し立てる相談を始めた。
いきなり申し立てるのではなく、事実関係の確認として姉の弁護士―神崎先生という―から書類を送ってもらった。それを見た義兄は大いに動揺したらしく、神崎弁護士に電話で「自分の行動はすべて家族のため。調停を起されるなんて心外だ」と言ったが、「梨花子さんとすみれさんの面会が実現できれば調停の必要はないですよ」という神崎弁護士の助言に対しては、「…少し考えさせてください」と口ごもった。
結局、数日後には義兄も弁護士を立て、文書を送付してきた。その中には、「梨花子さんの同居時の生活態度が荒れていたためにこのようなことになった」「梨花子さんの精神状態が不安定なので、娘と会わせることはできない」「娘本人が母親を拒否している」…と書かれていた。
――驚愕だった。
実は姉は夫から「会わせることはできない」と電話をもらった後、弁護士を雇う前に一人でM市へ飛んでいる。約束は何もない。ただ、自分は娘に嫌われているのか…いてもたってもいられなかった。
すみれの通う小学校前で、ただ下校時刻に立っていた。
そしてこの時、奇跡的に友達と校門をくぐったすみれと会っている。すみれは母親を見て驚いた顔をしたが、「ママ…どうしたの?」とごく普通の態度だった。
姉は泣くのをこらえ、「すみれが…電話してくれないから、ママきちゃった」と言うと、「電話?」と不思議そうな顔をして、「冬休みにすみれ、ママのところに遊びに来てくれるんだよね?」と言うと「うん、私行くんだよね?」と逆に聞かれている。
すみれは父親から私の話を何も聞いていない。引っ越した時のままなんだ…。
姉は確信し、笑顔で「じゃあ、またね」と手を振った。動揺させたくなかったし、長く引き留めることははばかれた。
もうこれは、第三者の介入がなければ難しいかもしれない、と腹をくくる。
平成27年秋の出来事だった。
[7]面会交流調停のはじまり
第1回調停は、翌平成28年2月下旬に行われた。
勉強不足の私は、調停を申し立てればすぐに準備が行われ、比較的早期に開始されるものと考えていたが、ふたを開ければ姉がすみれに会えなくなってから7カ月が経っていた。
そしてまた、審議が開かれれば第三者のもとで事実関係が整理され、「それはお父さん、いけませんね…」という具合になって姉はすみれと会えるもの…と考えていた。
思い返せば、なんという世間知らず、希望的観測だったのだろう。
実際には、第1回の調停は「双方の主張の整理」だけであっけなく終了した。
このような夫婦の諍いや調停は、家庭裁判所では日常茶飯事であることをだんだんと私は知る。そして、姉が神崎弁護士を雇う前に無料相談に行った弁護士から言われた、「配偶者やパートナーから『いつでも会わせるから』と言われて別離した子どもと二度と会えなくなった…というのは、よくある話ですよ」という言葉は、一切の誇張がないものだということを、私は知る。
この頃から私のスマホには、姉から毎日のようにラインのメッセージが頻繁に届くようになった。ラインとは思えない長文も多々あった。
姉は何かあると、息をするように私に連絡をしてきた。
〈調停でさんざん主張したけど、なんにも進展しなかった! 悔しい。次回は4月だって〉
〈え? 1カ月半も先ってどういうこと!?〉
〈これが普通らしいよ。それに秀樹さん、仕事が忙しいからその日しか無理だって。ずるいよね。仕事だって言われたらなんにも返せない…〉
調停というものは、「次回は来週で」というわけにいかないものなのだと、その世界ではごく常識的なことを…私はまた知る。
――結局、第2回、第3回もこんなことの繰り返しだった。
互いの主張と、事実関係の確認。こちらに有利になりそうな案件について、「では次回までに確認しておきます」と弁護士や調停員が言ってくれても、それが1カ月以上後だったりする。おもしろいくらいに進展しない。
それでもようやく7月になって、家庭裁判所の調査官がすみれ本人から話を聞くことが決まった。これもまた義兄が大いにごねたのだが、裁判所内ではなく自宅なら…としぶしぶOKというかたちで、その日程調整にも時間がかかった。
7月下旬。夏休み。
結局、姉とすみれが別離してから1年が経ち、すみれは3年生になっていた。
[8]「ママには会いたくない」
1カ月後、姉のもとへ聞き取り調査の結果が届く。
その内容は、簡単には言い表せないものだが、簡潔にまとめるとすみれが語った内容は次のようなものだった。
「ママとは会いたくない。自分勝手に裁判を起こしてパパを被告人にして困らせている。おばあちゃんとパパと暮らす今の暮らしが気に入っている」
調査官が、「ママに対して会いたくないという気持ちを持ったのはいつからかな」と尋ねると、「こっちに引っ越してきてから。パパから裁判のことを聞いて」と答え、「一緒に暮らしている時はママのことをどう思っていたか」という質問には、「お酒を飲んで寝ている時もあったけど、ご飯は毎日ちゃんと作ってくれていたし、退院した時はうれしかったし、好きだった」と言った。
家庭裁判所の調査官は長い報告書の最後に、自らの意見として「未成年が母親に対してこのような心情を抱くのは、周囲の大人から正しい助言を受けていないことが要因と感じられる。いずれにせよ、周囲の大人は争うのではなく未成年に対して何ができるのかを念頭において行動するべきである」と書いていた。
ちなみに、子どもに対して調停の内容を話していることに、義兄は裁判所から注意を受けたらしい。裁判ではなく調停であり、調停に被告人は存在しない…ということも添えて欲しいと思ったが、それが伝えられたかどうかはわからない。
姉も神崎弁護士も同意見だった。すみれの拒絶はショックではあるが、すみれが自分の言葉で「M市に引っ越してからママのことが嫌いになった」と語っている以上、「すみれ自身の体験がもとになっていない」ことは明らかだった。
私も陳述書を書いた。「これでは姉からすみれを、というだけでなく、すみれから母親を引き離すことにもなってしまう。姉の体調を考えても、母と子の絆を取り戻させてあげてください。すみれの長い人生で、このまま母親と離れてしまうのは取り返しのつかない心の傷となってしまいます…」と。
ところが、これ以降も調停はまったく進展しなかった。
ここは、夫婦でじっくり話し合うべきタイミングだったと思う。…のだが、調停ではお互い顔を合わせないのが原則で、お互いに歩み寄ろうという気配もない。
そして、あろうことか姉は、調停の行く末をさらにこじらせる、義兄宛ての文書を提出した。
「調停を起こしたのは、私は何にも屈しない強い母親であることをすみれに見せたかったからです。もし私がこのまま死ねば、あなたは私をいなかったことにするでしょう。手に取るようにわかります。でも私は、何が正しいことなのかをすみれに自分の言葉で伝えるつもりです」
これを読んで激怒した義兄は、「今までのすべてのことを謝れ。皆川家に失礼なことをしたと謝罪しろ」と言ってきた。
[9]「謝らないよ。これが私なの」
私は姉の体調を心配しながらも、この時心底、疲れていたし、あきれ果てていた。
〈どうして皆川家に謝罪しなきゃいけないの? 関係ないよね。私に嘘ついてすみれと引き離したのはそっちなのに…〉
〈お姉ちゃん、それはそうだけど「謝れ」ってことは、謝ればすみれと会わせてもいいって意味じゃない? だって向こうも調査官の文書読んで少しはマズイと思っただろうし。お姉ちゃん、形だけでもいい、すみれと会うためなんだから…。少なくとも「私の入院中はお世話かけました」ってそのことだけでもお礼を言うっていうのはどう?〉
〈いや、謝らないよ。これが私なの。私は私のやり方で、正しいことをするから〉
負けるが勝ちという言葉もあるよ…と言おうとしたが、飲み込んだ。
姉の性分を考えると、この先調停で面会交流にこぎつけて、自分の言葉ですみれに愛を伝えたかったのだろう。
間違ったことをしていないのに頭を下げるような自分なら、すみれに会わせる顔がない――そういう人だった。
ただ、それは健康に問題がない人の選択肢だ。
この年の春、既にガンが再発し、姉は抗がん剤治療を再開。1カ月ほど入院し、数か月間様子をみてまた入院…というサイクルを繰り返していた。
調停は基本的にM市の家庭裁判所で行われるため、出席するためには飛行機に乗り一泊二日の予定を組まなくてはならない。調停の日程を変えることはできないから、姉は調停とかぶらないように入院スケジュールを組んでいた。
本来であれば「このタイミングで入院を」という主治医の提案を、姉は調停のためにずらしてもいた。それがどの程度病気の進行に影響したのかはわからないが、「多少延命したとろで、すみれに会えないのなら生きている意味はないんだから」という姉の信念を、誰も変えることはできなかった。
しかし明らかに食道の腫瘍はふくらんでいき、姉はだんだん「声が出づらい」と言い始め、私たちのコミュニケーションはますますラインが中心になっていく。
食事も喉を通りづらくなっていたようで、会うたびに「また痩せたな…」と心配になったが、目だけはいつも強い光を放っていた。
そのまま平成28年は暮れていった。
[10]余命は長くて3カ月
平成29年1月。姉の余命は「長くて3カ月」と宣告された。
本人も私達もずっと聞かずにいたのだが、いろいろな事情があいまって、本人の知るところとなったのだ。
〈3カ月なんだって。いろいろ身辺整理しなきゃぁ〉
――とのんびりしたラインが送られてきた時、私は一瞬なんのことかわからなかった。
その数字に現実感が持てなかったのは、まだこの時の姉は、ちゃんと日常生活をおくっていたからだった。自分の足で立って歩き、化粧もおしゃれもして、まだまだ美しかった。
私がオロオロしていると、数日経って姉から再びラインがきた。
〈沙世子、私、M市に行ってくる。すみれの小学校の近くにウイークリーマンション見つけたから、有り金全部持って引っ越すわ。どうなるかわかんないけど、すみれの近くに行きたいから」
〈わかった〉
反対なんてできるはずもなかった。
それから数日間で姉は、主治医と相談してM市の病院への紹介状をもらい、神崎弁護士や裁判所に引っ越しする旨を伝え、交通機関の手配やウイークリーマンションの契約などを手際よく済ませ、何箱かの段ボールを新居に送る手配をした後、キャリーケースを引っ張って、あっという間に行ってしまった。
あっさりしたものだった。
せめて見送りに…と、近隣の駅まで出向いた私に姉はこう言った。
「帰ってこないかもしれないから。親をよろしく」
「わかった。こっちのことは心配しないで」
「沙世子、子育てが落ち着いたら文章書きなよ。こないだの陳述書も、要点のまとめ方すごかった。…そうだ私のこと書いてよ。いつかと言わずすぐ書いてほしい。私の記録は、ぜんぶ沙世子に送ってあるでしょう」
あっ、と思った。
毎日のように「考えたことや、取った行動」を詳しく私にラインしてきたのは、ただ姉の愚痴や相談ではなかったのだ。
ちょっと驚いたが、この時は話をしている時間はなかった。
電車の発車時刻になったので私は姉の手を握り、なんと声をかけようかと少し迷った後、「…しっかりね」と言って手を離した。
それが自分の足で歩く、美しい姉の姿を見た最後だった。
既に精一杯頑張っている人に「頑張れ!」と言ってはいけないというが、姉を乗せ、小さくなっていく電車を見ながら私は心の中で叫んだ。
――お姉ちゃん、頑張れ! 頑張れ! 頑張れ!
〈後編へ続く〉 姉はすみれに会えたのでしょうか・・・
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