〈手記2〉余命ゼロの姉、スローな調停で子に会えず、無念死[後編]
※数字や名前は架空のものが混在していますが、ほぼ実話です。
前編からのつづきです。前編はこちらから↓↓↓
[11]学校前でのすみれの反応
〈無事にM市へ到着。ウイークリーマンションへ入居しました〉と、その日のうちに姉からラインがきた。
体調は、当面は簡単な家事や裁判所への通所などには問題がない、とのことだった。
その後2月に入ってすぐ次の調停が行われたが、義兄は姉の余命を聞いても、「それでも子どもに会わせるつもりはない」と固辞したため、姉はその日、調停を取り下げてマンションへ戻ったという。
〈え! 調停を取り下げたの? どういうこと?〉
〈うん。余命宣告されてから考えてたことなんだ。調停中は子どもに直接会いに行ったらマズイから、取り下げて、ただの母親になってすみれに会いにいこうと思って〉
確かに姉の言葉には一理も二理もあった。元来、姉はすみれの普通の母親なのだ。そもそも虐待などで引き離されたわけでもなく、接見禁止を受けているわけでもなく、親権だってある。
本来ならなんの問題もない、「普通に会う」という行為…。
ただ、すみれ本人が母親に会ってどんな反応をするのか、正直言って私も怖かった。
そして翌日、一抹の不安と希望を抱えながら、姉が下校時刻に小学校前に立っていると、すみれが現れた。すみれは母親の顔を見ると青くなったが、姉が「なんにもしないから、これ読んで…」と用意した手紙を渡すととりあえず受け取り、逃げるように立ち去る。
そしてその日のうちに義兄から「手紙読んだぞ。なんてことをしてくれたんだ」とラインがあった。
義兄の怒りは想定済みだったが、姉はすみれが「ママ…!」と少しは好反応を見せてくれること、手紙をこっそり読んでくれることにわずかな期待を抱いていた。確かに賭けではあったが、すみれと一対一で会えれば何かが変わるかもしれない…という願望もあった。
子どもの立場に立ってみれば仕方のないことだったとも思う。
姉夫婦は子どもを間に立たせて争い、平穏な毎日を与えることができなかった。そういう意味では同罪だ。
姉が書いた手紙は、なんということもない内容だった。
「すみれへ。ママはもうすぐ遠いところに行くかもしれません。だから少しだけ、すみれの顔を見せてください。そしてできれば一緒にご飯を食べたりできたら嬉しいです」
[12]保全処分の申し立て
それから姉は2日間ほど学校の前に立ち続けたが、義兄がすみれをガードするように現れて、「それ以上近づいたら通報する」と言われた。姉は「ご自由に」と言ったが、すみれはおびえた顔でこちらを見ていたようだ。
後で聞いたことだが、この出来事は「不審者が出た」と学校でしばらくの間話題になったらしい。
余命宣告されてもすみれに近づくことはできないと悟った姉は、神崎弁護士と相談し、再び調停を申し立てることを検討したが、裁判所側からは「今から始めても、審判は早くて1年後になると思います」と言われて断念した。
そして神崎弁護士との相談の結果、「審判前の保全処分申し立て」を行うことになった。
保全処分とは、何かしらの事情で今の状態を放置できない場合に申し立てるもので、時間をかけて審議する前に「審判後の効力を保全する」こと、つまり「急いでまず先に結論出しちゃいますよ」という措置だ。姉の場合、余命宣告がこの事情にあたる。
だがこれを申し立てた時、既に暦は4月中旬になっていた。
神崎弁護士にどんなに急いでもらっても、家庭裁判所にその書類を提出できたのが4月下旬。そして5月に入っても裁判所からの連絡はなく、どう考えてもこの案件は裁判所にとって「連休後」になるのだろう…とあきらめた時、さすがの姉も落胆し、ラインの言葉にも力がなくなった。
〈のんびりしてたら、もう死んじゃうよね。あれからちょうど3カ月経って、余命ゼロになっちゃった。まだ動けるけど。裁判所にとって「余命ゼロ」の人間よりも文書が届いた順番のほうが大事なんだろうね。仕方がないよね。そういうシステムなんだから…〉
その年のゴールデンウイークの7日間は、地獄のように長かった。
[13]「不幸というほかにない」
結局、この「審判前の保全処分申し立てに関する審問」は、5月下旬に行われた。
義兄本人は裁判所にも表れず、裁判官から義兄側の弁護士に対する聞き取りをするにとどまった。
〈え、やっと開かれたのに、秀樹さん来ないって、そんなの許されるの?〉
――私のほうが怒っていた。
〈うん、裁判所にとってはまず事情を聞くのが目的だから、弁護士でもいいみたい。まあ、行かなくていいなら行かないのは当然だろうね…。次回審問は6月だって〉
6月か…。ため息がでた。
健康な人間なら、こんなものかと思えるような日程調整でも、余命宣告されている人間にとって「1カ月後」は果てしない道のりだ。
しかもこの時、言うなればもう姉は「余命ゼロ」だった。
それでも7月中旬にすみれに対して2回目となる調査官からの聞き取りが行われ、その報告書が7月下旬、神崎弁護士のもとへ届く。
内容を見た姉からすぐに連絡がきたが、私も読んで驚いた。
すみれは結局のところ、2年前の離別以降母親とほぼ交流をしていないのだから、母親に対する印象は良くも悪くもなりようがないのだ。
――にもかかわらず、すみれはこう語っていた。
「ママは呪いをかけてパパを攻撃しているので、近づいちゃいけないって言われました。もうすぐ死んじゃうって聞いたけど、会わなくてもいいです」
すみれ小学4年生、10歳の夏のことだった。
この結果を受けて8月、裁判所から
「未成年者の福祉を鑑みて、申立人と未成年者を面会交流させること。周囲の大人から適切な助言を得られず、実の母親に対してこのような心情を抱いていることは、不幸と言うほかにない。未成年者自身の感覚で、母親に対する感覚を取り戻すべきである」という審判がくだった。
保全申請が認められたこと自体「極めて異例」と神崎弁護士は言った。
――この文書を読んで姉は泣いた。
ただこの文書の文言は、こちらが訴え続けてきた「当たり前」の内容であり、この当たり前を裁判所の正式な文書に記載してもらうのに、母子の別離から実に2年、最初の調停が行われてから約1年半が経っていた。
姉は神崎弁護士とともに「すぐに面会する日時、場所などの相談をしたい」と何度も申し入れたが返答はなく、義兄側の弁護士事務所へ再度確認すると、「即時抗告した」とのあっけない返答だった。
〈即時抗告されちゃった…。神崎先生も激怒してたけど、裁判所も高裁の審判が出るまでは、できることがないんだって…〉
〈どうして? 保全も認められて、裁判所からあんなにはっきり「会わせなくてはならない」って文書も出たのに、どうして会えないの!?〉
〈強制力はないんだってさ…。親権の取り合いじゃないから、子ども本人が会いたくないって言ったら無理やりはできない。結局は同居親の気持ちひとつだけど、断固拒否されてるから、これでもう終わりかな…〉
〈そんな!〉
[14]余命ゼロの人に怒りはぶつけられない
この頃になると、私も気が狂いそうになっていた。
ずっとこらえていたが、「即時抗告した」のあたりから、気絶できるものならしてみたい、と思っていた。
毎日のように姉から不穏なラインが来て、読むたびに目の前の家事育児ができないようになり、子どもにも辛くあたることが増えていた。
姉に元気でいてほしい、できることはしてあげたい、調停も支えてあげたい…と陳述書を書いたり過去の判例や子どもの権利などを日々、調べていたが、成果に結びつく予感もない。
当然だ。私にできることなど、はじめからないのだから。
そして姉本人に対しても、「どうしてお姉ちゃんは自分で自分の人生を複雑にするの!?」と怒りをぶつけたくなっていた。―が、もちろんこらえた。
余命ゼロの人に怒りをぶつけることはできない。
姉は、闘う必要のない相手には優しい人だった。私にとっては良い姉だった。最後まで愛していたかった。
そして改めて、この件に関して裁判所の強制力はないという事実に打ちのめされていた。
「相手の気持ちひとつ」とわかっているなら…お姉ちゃん、今からでも謝ろうよ…頭下げようよ…お姉ちゃんの弱った姿を実際に見たら、向こうだって…。
――何度も、喉まで出かけたが、言えなかった。
姉は、絶望的に嘘がつけないのだ。
[15]おかえりなさい
その後、姉の体調は坂道を転がり落ちるように悪化し、M市の病院で肺から水を抜いてもらったりして、だましだまし保っていたが、9月中旬にはもうできることがなくなった。
携帯用酸素ボンベを引っ張りながらの生活を余儀なくされ、さすがに限界を感じたようだった。
〈そっちに帰ろうと思う。でももう、飛行機には乗れないな…〉
〈わかった。迎えに行くよ〉
…とは言ったものの、私には手段が難しく、結局私達にとって兄のような存在のいとこが姉をM市まで迎えに行き、新幹線と車で連れて帰ってきてくれた。ありがたかった。
〈お姉ちゃん、私に何かできることない?〉
「最後に」とは言えなかった。
〈ある。沙世子にしかできないこと…。向こうの弁護士の懲戒請求の文書を作ってほしい。本当は自分で書きたいけど、もう無理だから。向こうの弁護士もひどすぎると思う。審問の時に裁判官から「なぜあなた達は皆川さんに面会交流を勧めないんですか?」って聞かれてもまともに答えられなかったからね。子どもの将来とか、何にも考えていないように私には見えた。何があったか沙世子は全部、記録持っているでしょう〉
まだ闘う気なのか…と驚いたが、〈わかった。まかせて〉と答えた。
実家に戻った姉はすぐに入院し、数日後に亡くなる。
抜けるような秋晴れの日、40代半ばの旅立ちだった。
余命がゼロになっていたとはいえ、つい先日まで自分の足で裁判所に通っていたのだから、なんとなくまだ大丈夫だ…と思っていた。
だから、散り際のあっけなさに驚いた。
けれど考えてみれば、余命ゼロになってから5カ月も頑張ったのだ。
私は姉が帰ってきたら、しばらく実家でできることをするつもりで、ガン患者の看取りや訪問専門の看護師などについて調べてもいたが、その必要もなく、帰ってすぐに亡くなったのだから、既に体は朽ちていたことになる。
M市にいる姉に対して私は何度も〈そっちに行こうか? 手伝うことない?〉と聞いたが、〈必要ない。沙世子は自分の子どもの世話をして。来てくれるならその交通費をくれたほうが助かる。調停にお金かかるから〉と現実的なことを言われた。実際、資金も限界だった。私も限界だった。
〈沙世子、それより記録を残してほしい。いつか私のこと書いて。私みたいに親権の取り合いまでにもたどりつけない、ただ子どもに会うことすらできない親もいるんだって…〉
姉が亡くなった日、父が義兄へ事務的な電話をした。
「今日、亡くなった。あとは全部、こっちでやるから」と言う父に、義兄は「わかりました。調停の件はどうしますか?」と言ったらしい。
後からわかったことだが、義兄側による即時抗告を高裁が棄却し、「早急に母親と未成年を面会交流させること」という審判がくだったのは、姉が亡くなったその日だった。
神崎弁護士からそれを聞いた時、少し驚いたが、即座に、それももうどうでもいいことだ…と感じた。
無力だった。
[16]複雑で美しかった人
姉は逝ってしまった。私にたくさんの宿題を残して。
そうして調停に提出したものも含め、すみれにたくさんの文書やら、手紙やら、メモを残した。
「何を失っても、あなたを失わない」
「いろいろダメなママでごめんね。けっこう怒ったこともあったよね。最後に一緒にママが作ったご飯食べて、一緒に眠れたら、ママはいつ死んでもいいな」
「すみれが学校でママを見てびっくりしたこと、ちっとも気にしなくていいからね。親は子どもに少しくらい冷たくされたって全然平気。すみれは長生きして、白髪のおばあちゃんになってから天国に来てください」
「すみれ、いま、どうしていますか?」
こんなに愛があったのに、すみれに会うために夫に頭を下げられなかった姉。
そこには理屈じゃない、不可思議な心があり、妥協のない自分の人生を生き切ることを渇望した姉の姿があった。
――昔よく、姉は空を見あげて言っていた。
「日本の空は電線があるから、景観という点では今ひとつなの」
「そうなの? あるのが当たり前だと思ってた。私にはこれでも十分きれいだけどなぁ」と言う私を見て、
「まあ、ほとんどの人は気にしないけどね」と笑った。
亡くなった年の夏、姉はM市で一時入院し、病室の窓から見える空の写真に
〈部屋は窓側です。それだけでも救い〉とコメントを添えて送ってきた。
そして、
〈この空を、私はもう見られないかもしれないなぁ〉
とも書いていた。
お姉ちゃん、ほとんどの人は、電線があっても空の景観に満足するんだよ。
[17]3年経って気づいたこと
姉の死後1年間は、ぼんやりと過ごした。
そして一周忌の法要が終わった後、なんとなく姉の写真を飾れるようになった。笑顔の写真を見るとほっとした。そういえば、すみれと離れてから、心からの笑顔を見ることはできなかったな…と思った。
少しずつ、遺品の整理も始めた。
2年経つとようやく、姉とのラインのやりとりを整理しようと思い立ち、テキスト化してみたら、姉がすみれと別離してから亡くなるまでの2年間だけでA4・500ページくらいの文章量があって驚いた。調停の内容、今日感じたこと、後悔、すみれへの想いなど、「一人の人間が何を感じ、どう行動したか」の、それはそのまま記録になっていた。
3年以上経つと、私にもわかってきた。
大切な人を亡くしたら、悲しみは永遠に薄れることはないのだと。
「信じようよ」と軽く言った自分のアドバイスに対する罪悪感も、何もしてあげられなかったという無力感も少しも薄れることはない。
それでも、起こった出来事を整理することはできる。
――沙世子、文章書いてよ。
と言った姉の言葉の意味が、少し理解できるようになっていた。
姉は失敗した。目も当てられないほどの大失敗だったかもしれない。
姉を救ってあげることはもうできないが、未来に何か少しでも繋げることはできないだろうか?
過去の失敗から学ぶことはできるだろうか?
世の中には、避けられない不幸が山ほどある。
でも、夫婦の不和からくる子どもの不幸はどうだろう。
避けられる不幸なのではないか?
男女間の愛情が薄れること、離婚することは仕方ない。
――でも、子どもは?
子ども時代に親と離別、あるいは死別することが、子どもにとって最大の不幸であると断言はできない。
愛のない親もいるだろう。
会わないほうがいい場合もあるだろう。
けれど、確かにあったはずの愛情が、なかったことにされるのは?
愛されなかったと誤解して生きることは?
――紛れもない不幸ではないのか。
あまりに理不尽じゃないか。
もっとやり方があるだろう。
私達にはまだ、考えなければならないことがある。
[18]私は横移動する
「時間が心の傷を癒してくれる」という人がいる。
「日にち薬という言葉もあるよ」という人もいる。
けれど姉が亡くなっていく日々を、あまりに異例な出来事が邪魔をして素直に悲しむことができなかった寂しさは、癒えることがないーと自分でわかる。
もっと悲しみたかった。
それでも生きていれば、ゆっくり歩いて次のステージに移動することはできる。それは前進ですらない…ただの横移動かもしれないけれど。
横移動し、起こった出来事を違う角度から眺めることで、生きていく取っ掛かりを掴む。それが世に言う「日にち薬」の正体じゃないのかと…今は思う。
葬儀は行ったが、弔いはできていないとずっと感じていた。
ずっと心の中で謝っていた。
私は横移動する。
姉の生きた記録はこんなものじゃない。ここに書いたことは100分の1にも満たない「さわり」だ。
これから少しずつ、起こった出来事を整理する。何年かかるかわからないけれど。
――お姉ちゃん、私、お姉ちゃんのこと書くよ。
[後編おわり]
姉の生きた証を、これから少しずつ残していきたいと思っています。
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