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幸せのなかに見る「私とは」のゆらぎ
最近、会いたい人に会える日が続いていて楽しい。
息子が元気に成長してくれていて嬉しい。
悩みもチラホラあれど、当たり前でない人や物事に恵まれ、とても幸せなんだなと思う。
疑問が頭にふっと浮かぶ。
「私ってこんな人だったっけ?」
こんな話題をする人だったっけ、こんなふうに親しい人と話す人だったっけ、こんな身体の感覚だったっけ。
「私」とは、こんなに手触りのない流動的なものだっただろうか。何で構成されている、と言えるだろう。
そんなことをここ数日ぼんやり考えていたところ、先ほど耳読了した『ある男』(平野 啓一郎)。私にとってタイムリーな物語だった。
「私」とは、「その人の人生」とは。そういう問いに肉薄する、というか、読者に肉薄させる本に感じた。
「その人」はその人の過去の集積なのか。「血は争えない」のか。他者のふりをするだけで自己は簡単に薄れるものなのか。
私はそれらについて今こたえを出すことはできない。
ただ、不要な自意識は本当に不要なのだと思った。いらないものは捨て去って軽くなれるものなのだ考えると、持ち札が増えた心地がした。