デザイン料金の理由とは。

まだ詳しくは話せないけれど、進めていることがある。
それに関係することなんだけど、ぼくらの費用が高いと言われる理由はいくつかあるし、諸説ある。
有名な話が、「ピカソと偶然出会った人が、コースターかなんかの裏に似顔絵を頼んだらサッと描いてくれたけれど、請求された金額に驚愕した」って話がある。
そこでは、「1分で描いた絵と他の作品も同じ、私(ピカソ)の作品だ」といった理由が語られている(細かい内容は絶対に違うと思うけれど、それはご勘弁を。※この後インターネットで調べたら、30秒で描いて、「30年と30秒の時間がかかっている」というのが多いが、主旨としては同じ)。
これと同じような理由に、「培った知識や技能が反映されているから」という理由がある。
ぼくも、これに反対する理由はない。
士業や医師などの専門家に支払うお金が高いのも、そういった専門性に由来しているからだ。
だが、もうひとつ、忘れてはいけない理由がある。

それが、コストだ。
ぼくの話では何度も登場するが、人間の営みには「感情」「時間」「お金」「労力」の四点におけるコストが発生する。
そして、この四点のコストと同じ内容のメリットがあり、人間はコストよりもメリットの方が上回らなければ、消耗し、ゆくゆくは過労死となる。
つまり、どんな人でも健康的な人であれば、コストよりもメリットの方が上回った行動をしているわけだ。

これを、ぼくらのコストに割り当てていくと、どんな職業であれ、専門家の仕事というのは、素人もしくは自分よりもレベルの低い専門家がお客となる。
そして、ここでのやりとりには、説明が発生する。
塾講師や教師という職業があるように、わからない人が理解できるように説明することは大変な仕事だ(ぼくは彼らを尊敬している)。
ましてや、彼らと違って、教えることや説明がメインの仕事ではない職業にしてみたら、ひどく面倒臭いことでもあり、これが感情のコストになる。
補足的な説明をすれば、「ディレクション」とは「方向づけをする仕事」であり、「デザイン制作」とは「つくることが仕事」である。
厳密に言えば、これらの仕事の中には「説明」や「教えること」は含まれていない。
なぜならば、専門家が行う仕事を、素人である依頼人に説明したところで、本当の意味で理解などできないからだ。

これについてもぼくの話で何度も登場しているので恐縮だが、このことを表す言葉が「信任」「職業倫理」である。
理解できない素人および能力の劣る人は、依頼する専門家を信じて任せる(信任)しかなく、信任されている専門家は職業倫理を働かせて、相手の不利益になることは一切せず、利益になることだけをする。
度々取り上げられる例としては、意識不明で搬送された患者を治療する医師である。
意識不明の患者(依頼人)は医師(専門家)と契約を交わすことができないので、医師を信任するしかなく、信任された医師は職業倫理を働かせて治療をする。
ここで医師は、自分の興味本位で患者を実験することは許されないのは想像に難くないだろう。
だから、信任できないと思われる働きぶりであれば、「不信任案」を提出するのである。
これは国会であっても、経営層においても同じであり、その大元は専門家と素人(および能力の劣る専門家)という間柄で発生することだ。
信任と職業倫理については、ぼくの話よりも岩井克人さんの『会社はこれからどうなるのか』に詳しく書かれているので、是非読んで欲しい。

話を戻すと、つまり、説明というのは劣っている相手に理解させたり、成長させるためのものであり、本来的な意味でいえば必要のない行為である。
そして、説明には感情・時間・労力のコストが発生(サンプルを制作すればお金のコストも発生)しており、このコストの合計を、お金のメリットだけで超えなければならないのだから、自ずと費用は高くなる。
そして、不幸にもぼくたちの業界で過労死や体を壊す人が後を絶たないのは、費用も安くなっているのに、コストが増えているからだ。
そう、今の日本で起きていることは、人間を消耗品として扱う現象だ。

この話は後日に回すとして、ここまでで費用が高くなる理由には、「専門性」と「コスト」があることがわかっただろう。
そして、専門性はなくすことができない(むしろ経験を積めば積むほど増していく)としても、コストは下げることができることにお気づきだろうか。
コストが増大する原因には「感情」「時間」「労力」が関わっている。
そうであれば、これらのコストを極力減らせば、必要となるメリットも少なくなるということだ(拝金主義や金の亡者のように儲けようと思わなければだが)。
つまり、お客都合の修正や、選り好みさせるための無駄な案をつくることを止め、専門家を信じて任せれば、余分な説明を省略することができる。
費用を高くしているのは、依頼人自身なのだ。

実際に、ぼくは独立してから、「この人は嫌いだな」と思う相手とは仕事をしないようにしているし、どうしても見積もりを出さなければならないときは、かなり金額を高くしている。
「この金額でも依頼したかったらどうぞ」という態度なのだが、そういう人の場合、金額の前に契約書がある段階で引き下がっていく(業務委託なのに契約書を交わさないで依頼しようと思っていることがそもそも間違いなのだが)。
けれど、これとは真逆に、自分が好きな相手や、やりたいと思ったことは費用感としては最低金額を設定している。
最低金額というのは、ぼくら夫婦が暮らしていける金額だ。
所得となったお金は、学びのために使ったり、恩送りとして人に使ったりしている。

もちろん、金額の設定は人それぞれで構わないと思うし、考え方も人それぞれで構わないと思う。
だが、お金を払う時に「高いからまけてよ」という人は、自分が撒き散らしているコストを考えてみてはどうだろうか。
ぼくの例はもちろん一例でしかないが、写真でもデザインでも世界的な賞を受賞している人の考え方として、参考にしていただけたら幸いだ。

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