
メキシコ皇后シャルロット 1/4
1-野心の悲劇
1866年。シャルロットは、絶望の中でメキシコからフランスに到着しました。
電報の返事から、ナポレオン三世が彼女の受け入れを渋っていることをすでに悟っていたからです。
普墺戦争は悪化しており、フランスには苦悩が重くのしかかっています。そこでフランス皇帝は「シャルロット、ブリュッセルの兄上レオポルド二世に会いに行ってはどうでしょうか?」と返信してきました。
すでに責任の押し付け合いが始まっています。

サン=ナゼールに上陸したシャルロットを迎えに来ている使節団はいません。ただ、市長が息を切らして礼を尽くしただけでした。
シャルロットは「知事すら迎えに来ていなかった」と悔しそうに手紙に書いています。
仕方なく広場に止まっている馬車で、グランドホテルに向かい、翌日このホテルでウジェニー皇后に会う約束をようやく得ました。
フランス皇后は彼女を拒否しませんでしたが、ウジェニーはもはや、自分の息子を栄光に導くためにメキシコに送ることができなかったことを後悔した過去は忘れていました。今のウジェニーは、裏切り行為だろうとお構いなしに、夫ナポレオン三世をメキシコ問題から遠ざけることだけを目指しています。
思惑を秘め、豪華に着飾った二人が、ホテルの一室で固い表情で微笑みながら抱き合います。


ウジェニーはさり気なく社交の話を持ち出したり、メキシコ皇帝夫妻が居住しているチャプルテペク城のことや、エキゾチックなメキシコの習慣について聞きたがり、皇帝との面会などの肝心な話は避けています。
なぜなら皇帝は体調が優れません。
「皇帝陛下が私を受け入れてくださらないのであれば・・・」シャルロットはウジェニーの目を真っ直ぐに見ています。そして、こう言い切りました。
「私から陛下のもとに出向かなければならないでしょう」
ナポレオン三世はサン=クルーで、この厄介な問題を終わらせることを決めました。
シャルロットはフランス皇帝の後継者によって、優雅に皇帝の前に導かれます。
確かに、ウジェニー皇后は嘘をついていませんでした。ますます高まる反対勢力やプロイセンの脅威、第二帝政の皇帝は、すでに息切れして弱っていました。
しかし、シャルロットは夫マクシミリアンと手にした玉座を守るために闘います。封印されるべき事柄を口にすることすらためらいません。ウィーンでは、マクシミリアンの実の父親はライヒシュタット公(ナポレオン一世の息子)であると、まことしやかに言われてきました。(その場合、マクシミリアンはナポレオン一世の孫になるが、真相は不明)。もちろん、ナポレオン三世もその噂を知っています。
フランス皇帝が今、約束したメキシコへの援助を拒否することで、ナポレオンの後継者であるマクシミリアンを確実な死に追いやっているとシャルロットは必死に訴えかけます。
皇帝は、ヨーロッパとアメリカの状況が変わったこと、そして、このメキシコ問題が今やフランスに対しても逆風であることを説明しようとしますが、無駄でした。
シャルロットはこの残酷な事実を受け入れることは出来ません。
唯一の解決策は、この"不可能な帝国"を諦めることだと何度も言いますが、彼女は誰の言うことも聞きませんでした。
シャルロットは相変わらず「あなたは偉大なナポレオンの後継者です」とメキシコにいる夫に手紙を書き続けます。
フランスを発ち、9月にローマに到着しました。
枢機卿アントネッリはすぐに彼女のホテルに向かいます。枢機卿は、ローマ教皇からナポレオン三世にメキシコへの援助を求めることは出来ないとシャルロットに伝えます。
なぜなら、フランス駐留軍が、統一したばかりのイタリアの侵略からローマ教皇庁を守る唯一の頼みの綱だからです。
それでも、シャルロットは諦めません。
立派な護衛とともに直接ローマ教皇庁に向かいます。

教皇ピウス九世は彼女を迎え入れましたが、メキシコ問題に関しては、まず司教たちの意見を聞かなければ扱わないと断言しました。ナポレオン三世に対しても、ローマ教皇庁から何らかの影響を与えることは出来ないと付け加えられてしまいました。
シャルロットにとって、それは破滅を意味しています。
「猊下、どうか見捨てないでください!」
耐え難い、残酷な真実でした。
この時、26歳のメキシコ皇后シャルロットの精神状態は崩壊し、彼女は死ぬまで二度と正常には戻りませんでした。
錯乱状態のシャルロットはすぐに、夫が精力を注いで建てたミラマーレ城の一室に連れて行かれ、治療を受けました。
知らせを受けた彼女の兄フランドル伯が駆けつけた時、異様な雰囲気の室内に驚きを隠せませんでした。そこには忠実な侍女と、猫が一匹、狂気のシャルロットと共にじっと座っていました。
彼女は発作と錯乱が交互に訪れ、回復のための治療や試みがミラマーレで行われたものの良い兆候も見られず、フランドル伯から報告を受けた親族たちは、もはや彼女をベルギーの城に幽閉するしか方法を見つけられませんでした。
シャルロットの侍女はこう語っています。
「一日のほとんどの時間、この不幸な皇后陛下は長い沈黙に浸っておられました・・・時々フランス語や英語やドイツ語、またはイタリア語かスペイン語で話を始められたかと思えば、突然、架空の対話者と白熱した議論に耽り、しかし、その議論は支離滅裂でまとまりがなく、陛下の頭の中が、どのような考えで占められているのか推測することはできませんでした・・・」
1927年1月19日、第一次世界大戦にも気づかずに長い長い狂気の夜を過ごし、世界中の哀れみを誘う存在だったメキシコ皇后シャルロット・ド・ベルジックは86年の生涯を閉じました。
彼女の死を悼み、『フィガロ』紙はこう記しています。
「この皇后は、苦しみと哀しみの主権しか知らなかった。ゆえに、私たちの深い哀悼に値する」
忘却と哀れみ─それこそが、この誇り高きシャルロットにとって耐えがたいことであったでしょう。
そして狂気─それは悲しく厳しい現実を受け入れることを拒んだ者にとって、精神が編み出した究極の策略であり、メキシコ最後の皇后にとってはある種の解決策であり、神の慈悲でもあったかもしれません。
2- ミラマーレ城からモンテスマの宮廷へ。
シャルロットが狂気に陥る2年前の1864年4月14日。
イストリア半島のミラマーレ城は華やかな雰囲気に包まれていました。

オーストリアの建築家ユンカーが手がけたこの城は、旅人にまるで滞在を誘うかのような優雅な佇まいを見せています。
マクシミリアンとシャルロットは、まさに海を渡ろうとしていました。彼らを待っているのは、はるか彼方のメキシコ帝国の玉座でした。(1821年にスペインから独立し、1856年以降は共和国となったメキシコ。ヨーロッパに亡命したメキシコ人たちによれば、この国は君主制復古の機が熟しており、その担い手として信頼に足るハプスブルク家の皇子に期待を寄せていた。そして、この新たな帝国は、当時最も先進的な強国の一つであったナポレオン三世のフランスによって保証された)

「イストリア半島の民は皆、陛下に別れを告げたいと願っております。この地の民が、これほど誠実で高貴な君主にお仕えしたことは、かつてございませんでした」
そう語る市長の言葉は、まるで追悼の辞のように虚しく響きました。
楽団がメキシコ国歌を奏でます。
32歳のマクシミリアンがどこか不安げな表情を浮かべる一方で、彼の妻シャルロットはそうではありませんでした。彼女を皇后として称賛する群衆の熱狂ぶりに夢中になっていたのです。
マクシミリアンは、それまでの3年間にわたる駆け引きと覆される約束に疲れ果て、ついには主治医によって寝台に押し込まれるほど衰弱していました。
その間にもシャルロットは、壮大な送別会に次々と出席しました。彼女はどこにでも現れ、誰にでも微笑み、すべてに目を配り、各国代表団に的確な言葉をかけます。その姿はまさに新しい帝国の皇后としての風格を備えていました。
その洗練された振る舞いの裏で、彼女は宮廷でささやかれる不穏な噂─脆弱で見せかけのメキシコ帝国─には一切耳を貸しませんでした。
義両親から送られた電報には「祖国の地で、残念ながら私たちが二度と会うことは叶わないでしょう。このことに深く心を痛めながら、あなた方に祝福を送ります」と書かれています。
この電報は、マクシミリアンの不安を決定的なものにしましたが、シャルロットは完全に「頂点に立った」気でいました。彼女は父にこう手紙を書き送っています。
「マクシミリアンが、これほど私を幸福にしてくれるとは思いもしませんでした。彼は素晴らしい夫であるように、きっと良き父ともなるでしょう」