「死」とは何か 「生」とは何か (6)一発逆転 最後のピース
「実は宇宙も哀しいやつだ」
前回の記事の最後にそんなたわけたことを書きました。
「なんでお前にそんなことが言えるんだ」
そうおっしゃっていただいて結構です。
今回の記事はそれがテーマです。
さて、そのテーマに入る前に。
これまで5回の記事にわたって、「死」の問題から「生」とは何なのかという問題へ話を進めながら、私が若いころから考えてきた様々な考えを書き綴って参りました。5回の話は、内容があちこち広がって、やや分かりにくい部分もあったのではないか、という反省があり、いずれもう少し整理した形で改めてお伝えしたいという気持ちはありますが、とりあえず一連の話は前回まででほぼ一区切りということにさせていただこうと思います。
今回の記事は、これまでの話との関係で言うと「番外編」となります。
ただ、「番外編」とは言いながら、現在の私にとっては過去の私が考えた諸々の考え以上に重要な意味を持つものとなっています。
どのような意味を持つかというと、「これまでの考えを一切合切ひっくり返してしまう」ものだ、というくらいの大きな意味です。
つまり、これまでの5回の記事をどれかお読みいただいた方には大変申し訳ないのですが、今回の記事はせっかくこれまでにお読みいただいた話をひっくり返してしまうことになりかねないということです。それどころか、私自身にとってはおよそ半世紀に及んで考え抜いてきたことがすっかりひっくり返るわけですから一大事です。
とは言いながら、実は長年引っかかっていてどうしても解けなかった難問が、なんとスポンと解けてしまった、という話なので、是非ともこの「番外編」を、今回のシリーズの最後に付け足したいと思いました。
なお、「ひっくり返す」と何度も書きましたが、これまで書いてきたことが「無意味になる」ということではありませんので、それも申し加えておきたいと存じます。
さて、本日のテーマに関連して、「クレタ島の嘘つき」という話があります。有名な話なのでご存じの方も多いと思います。
こんな話です。
「あるクレタ人が、クレタ人はみんな嘘つきだ、と言いました。だとするとこの人もクレタ人ですから嘘を言っていることになります。ならば、「クレタ人がみんな嘘つきだ」というのも嘘だということになります。果たしてクレタ人はみんな嘘つきなのでしょうか、嘘つきではないのでしょうか。」
ウィキペディアを調べると、これは「自己言及のパラドックス」と呼ばれるもので、前世紀の大哲学者バートランド・ラッセルが集合論的に論じた難問につながるものだそうです。
私にはこの難問を論じる能力はありませんので、詳しくはネットや専門書をご覧いただいた方がよいと思いますが、ラッセルによる集合論の議論は確かに重大な問題だと感じます。
ですからこの問題については多くの賢者が色々なことを語っています。ですが私はその議論そのものにはあまり関心がありませんので、議論の中身に関してあえて発言するつもりはありません。
ただ、私はこの話のそもそもの部分に疑問を持っています。
この「あるクレタ人」ですが、ウィキペディアを見たら「エピメニデス」という名前まであるのですね。では、このエピメニデス氏ですが、彼はそもそもどのような資格と能力と確証によってクレタ人全体のことを知ることができたのでしょうか。私はこのことに根本的な疑問を感じます。
恐らく「クレタ島の嘘つき」の議論は、エピメニデスがクレタ人全体について言及することが可能であることを前提として成り立っているのだと思います。ですから、その部分が議論されることはないのでしょう。たしかにエピメニデスが発言してからの論理的な問題が論じられているのだから、そもそもの発言の可能性を云々しても始まらないということなのでしょう。
ですが私は、この問題の根源は「部分と全体」の問題だろうと考えています。なぜクレタ人全体の中の一人(部分)の人間が、全体について知りえて、語りうるのか。部分は全体にとって何なのか、という問題です。
(もしかしたら、というより恐らく、部分と全体という問題は、哲学的に散々論じられているのではないでしょうか。ただ、申し訳ありませんが、私自身は全くそれに触れたことがないし、今さら学ぶ能力も時間も気分もありませんので、既存の哲学議論については何も知らないまま自分が考えた話を進めることにいたします。)
「実は宇宙も哀しいやつだ」
前回の記事の最後にそんなたわけたことを書きました。
この発言に限らず、宇宙がどんなふうになっているかとか、宇宙がどうしようとしているとか、色々たわけたことを書きました。宇宙に抵抗しよう、なんてことも言いました。
宇宙「全体」のことを、宇宙の小さな小さなゴミつぶほどもないちっぽけな「一部分」である私が、なんで偉そうに考えたり語ったりできるのか。
「なんで…できるのか」の意味は、「偉そうに出しゃばってけしからん」ということではなく、何にせよ実際に考えたり語ったり「できてしまっている」のが何故なのか、という意味です。
これは、ずっと長らく私の喉元にひっかかっていた問いでした。
つまり、もしも私がこれまでの5回の記事で言ってきたことが正しいとすると、少々奇妙なことになるわけです。
宇宙の陰謀によって作られたものであり宇宙の一部分でしかない私が、宇宙の陰謀を暴き、あまつさえその陰謀を嫌い反抗しようと考えるなんて。
「クレタ島の嘘つき」とは違いますが、ちょっと似ています。
うんと雑に言えば、エピメニデスは全体に唾して、自分にかかった、と言えるでしょう。私も同じようなものです。
ただ、エピメニデス氏はクレタ人から抜ける(クレタ人の一部であることをやめる)ことができるかもしれませんが、私は宇宙の一部であることをやめる(宇宙から抜ける)ことはできません。私は一から十まで宇宙が作ったものであり、宇宙そのものでできています。ですから、私が知っていることは宇宙が知っていることであり、私が考えたことは宇宙が考えたこと、ということになります。
なのになぜ、宇宙が哀しいやつだなんて思ったり、宇宙の陰謀を嫌って抵抗しようなんて、この私が考えることができるのでしょう。
この問題、どう考えたらいいのか、なかなか糸口が見つかりませんでした。
そして、この問題について参考になるような話にこれまで出会うことがありませんでした。
ところが最近読み直した本に、この問題によく似た話が書かれているのを知りました。
木田元著「ハイデガーの思想」(岩波新書)という本です。
10年ほど前に一度読んだ本ですが、昨年もう一度読み直しました。
すると、本の最後「終章 描き残したこと」という部分に、重要なことが書かれていました。最初に読んだときにはピンとこなくて見過ごしていました。
本書によれば、ハイデガーは、「シェリングもニーチェも自身の「真の作品となるはずであった」主著の完成に挫折した」と言ったそうです。そして木田氏に言わせればハイデガー自身も主著の完成に挫折したことを自覚していたはずだと書いています。
その事情を説明するのに一番分かりやすいのはニーチェの例です。
ニーチェは「等しきものの永劫回帰」という有名な説を唱えました。世界は同じ時間の流れ(歴史)が無限に繰り返されているのだ、というのです。ところがそれが正しいとすると、「ニーチェ自身が永劫回帰説を唱えた」という出来事も、無限に繰り返された歴史の中に位置づけられてしまうということになります。
木田氏の文章を引用すると、こうです。
「つまり、ニーチェがその永劫回帰思想をどれほど独創的な思想だと主張しようと、その思想それ自体が回帰の必然性の車輪に巻き込まれてしまい、それは無限回も説かれてきた陳腐な思想だということになってしまうのである」
さらに
「果たして存在者全体が何であるかを告げるような…<哲学>の位置すべき場所があるであろうか。とてもあろうとは思われない。シェリングやニーチェが、そしてさらにハイデガーがその哲学の完成に挫折したのは、こうした自己撞着に逢着したからにほかならないであろう」
と書いています。
私としては、もうちょっと分かりやすく書いて欲しかったと思います。最初に読んだときは、この問題点を見過ごしていましたから。
要するに、世界全体を説こうとするような思想は、その思想自体が、それ自身が説いている世界全体の中に置かれてしまうので、ある種の矛盾(自己撞着)に陥ってしまうということです。「思想」の代わりに「絵」を例にするなら、ある絵を描いている者が、そもそもその絵自体の中にいる、と言った方がイメージしやすいでしょうか。
偉大な哲学者諸氏も、全体に唾したら自分にかかってしまった、ということです。
木田元氏のこのような文章が書かれているなら、哲学の世界はどのようにこれを受け止めようとしているのでしょうか。
さて私自身、この問題は、何となくいや~な問題だなと感じつつ、正面切って解くべき問題だととらえようとしてきませんでした。考えたってどうしようもないだろう、とか、それが人間存在に与えられた矛盾なのだろう、とかいい加減な気分で避けていたような気がします。
そうです、避けていました、昨年の8月までは。
スポンと解けました!
昨年の8月のことです。
まずは、この問題を引き起こしている根本的な思い込みが見えてきました。
このことは、すでに何度かの記事に書いてきましたので、お読みいただいた方もいらっしゃるかもしれません。
「哲が句」を語る 一番ホットな私|ego-saito (note.com)、「哲が句」を語る 「私とは何か」を問う困難|ego-saito (note.com)、などの記事です。
この問題の根底にある思い込みとは、「人間は宇宙の一部である」「人間は宇宙に属している」という前提です。
そもそもは、「宇宙」、あるいは木田元氏の表現で言えば「存在者全体」、もっと根本的には「すべて」という、いわば“空想的な概念”に問題があるとも言えるかもしれません。
そこで、「私が宇宙の一部ではない、宇宙に属していないかもしれない」と考えてみることから始めてみました。
もちろんそのような想定を考えることには相当に無理があります。私たちがまじめに普通にものを考えるときには決して想定しないようなことですから。
でも無理にでもある想定を考えてみる、ということを、私は時々してみます。
「私が宇宙の一部ではない」と考えたらどうなるか。
そのうち、ふと逆の考えが浮かびました。
「逆」とは、なぜ私たちは宇宙の一部だと考えたのだろうか、と。
なぜ宇宙の中のもろもろのものは宇宙の一部であり、宇宙に属したものだと考えているのだろうか、と。
果たしてそれほど確かな根拠があるのだろうか、と。
思いつくのは、質量保存則とかエネルギー保存則とか、物理学で習った最も基礎的とされる知識、あるいは物の生成消滅を否定してきた前近代の歴史、ほかにも同様のものがあるかもしれませんが、いずれにしても私たちが持っている常識的な知識が根拠になっているのではないでしょうか。
でもそれらは本当に確実な根拠を持っているのでしょうか。
ただ単にそのように信じている信念、あるいは信仰なのではないか。もはや疑うのもバカバカしいと思い込んでいるだけなのではないか。
そう思ってみると、この「逆」の発想の方がどうも怪しく見えてきました。
第一、私たちがいるこの宇宙が「唯一」の宇宙であるという考えも怪しくなってきています。
そのあたりで、スポンときました。
私は、宇宙の中で「底抜け」しているのではないだろうか、と。
私には、宇宙の一部でできている要素があるのは確かです。その部分は宇宙の一部です。ですが、私のすべてが宇宙の一部であったり部分であったりする必要があるのでしょうか。私は宇宙の中にいるのだけれども、私の底には宇宙の外へ穴が開いていて底が抜けている、そんなことをイメージしました。あるいは私とは、この大宇宙とは違う(小さな)別の宇宙であって、それが大宇宙に突き刺さって頭を出している、みたいな。
(あんまり具体的なイメージを言うと、笑っちゃいますが。)
こんな風に考えると、何だか、絶対に無理だと思っていた想定が、もしかしたらアリかもしれない、というくらいには思えるようになりました。
もちろん私について、物質的にも生物的にも社会的にも歴史的にも、普通の常識で考えて全く問題はありませんし、それが健全です。
でもそのような常識は、容易に私についての問いを解いてくれません。案外、私の底が抜けていると考えた方が、「私とは何か」の問いをすっきり解いてくれるかもしれません。
これまでの記事で私が述べてきた「生と死」の話や、その根拠として示した宇宙の進化とか宇宙の陰謀とかいった話は、基本的に唯一の宇宙の中にすべてが属しているという前提のもとに行われました。
ですから、私たちの生や死をもたらす宇宙の進化や宇宙の陰謀は、唯一絶対のこの宇宙の自律的な運動によるものだ、という想定のもとに成り立っています。
けれども、「底抜け」の発想は、これに根本的な疑問を投げかけることになりました。
そもそも、この宇宙は奇妙です。
不思議な階層構造があったり、ごたごたと色々なことがあったり、私という説明のつかないものが生まれたり。
宇宙って、こんな宇宙しかないのでしょうか。
唯一絶対の宇宙像ではなく、もっと自由発想の宇宙像が可能なのかも、という気がしてきています。
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