入祭唱 "Nunc scio vere"(グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ37)

 先日お知らせした通り,しばらくこのシリーズを書くのを休んでいる間は,今月10日から15日まで行われた国際グレゴリオ聖歌学会のための予習をし,そして実際に行ってきた。学会の間思うところがいろいろあり,新しい目標を持ちつつあるので,今後の投稿は初めのころのように軽い内容にする(訳すだけにするなど)か,あるいは当分すっかりやめるかもしれない。いずれにせよ,毎週投稿するのはもうやめる。

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 GRADUALE TRIPLEX p. 575; GRADUALE NOVUM II p. 265.
 gregorien.infoの該当ページ

 昔も今も,使徒聖ペトロと使徒聖パウロの祭日(毎年6月29日)に歌われる。ただし,祭日にはしばしばあることだが,前晩のミサ(祭日は常に前の日の夕方から祝われることになっている)は固有の式文を持っており,そちらの入祭唱は "Dicit Dominus Petro" である。
 この日は典礼暦上の季節でいうと必ず「年間」にくる。祭日は年間主日よりも優先して祝う定めになっているため,6月29日が日曜日にあたる場合もペトロとパウロの記念が行われる。

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

NUNC scio vere, quia misit Dominus Angelum suum : et eripuit me de manu Herodis, et de omni exspectatione plebis Iudaeorum.
Ps. Domine probasti me, et cognovisti me : tu cognovisti sessionem meam[, et resurrectionem meam].

【アンティフォナ】今や本当に分かる,主が御使いを送ってくださったのだと,そして私をヘロデの手から,またユダヤ民衆のあらゆる(悪い)期待から救い出してくださったのだと。
【詩篇唱】主よ,あなたは私をお試しになりました,そして私をお知りになりました。あなたは私が座るのを〔そして立ち上がるのを〕認識なさいました。

 角括弧内の部分は,少なくともEinsiedelnアインジーデルンの写本には記されていない。そのためGRADUALE NOVUMはこれを省いている。

 アンティフォナの元テキストは使徒行伝(使徒言行録)第12章第11節のほぼ全部,詩篇唱のそれは詩篇第139(Vulgataでは138)篇第1節後半と第2節全部である。アンティフォナも詩篇唱も,Vulgataの同箇所と完全に一致する。
 アンティフォナはペトロの言葉である。どういう状況で発せられたものかについては,こちら(使徒行伝第12章)をお読みいただきたい。
 詩篇唱については,GRADUALE TRIPLEXなど今の典礼書に記されている部分だけでなく同じ詩篇の先のほうまで見てみるべきであることを先日書いたが,今回はペトロの置かれた状況を考えると第7-11節など特に味わい深いのではないかと思う。本来Vulgataを訳すべきところだろうが,面倒なので新共同訳を引用する。

どこに行けば
 あなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば,御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも,あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも
 見よ,あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
あなたはそこにもいまし
御手をもってわたしを導き
右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

わたしは言う。
「闇の中でも主はわたしを見ておられる。
夜も光がわたしを照らし出す。」 


【対訳と解説】

【アンティフォナ】

Nunc scio vere,
今や本当に分かる,
直訳:今(今や,今こそ)私は本当に知っている,

quia misit Dominus Angelum suum :
主が御使いを送ってくださったのだということが(を),

et eripuit me de manu Herodis,
そして私をヘロデの手から救い出してくださったのだということが(を),
解説:
 この「ヘロデ」は,クリスマス物語に登場するヘロデ大王(紀元前4年没)ではなく,その孫ヘロデ・アグリッパ1世のことである。
 文はまだ終わっておらず,次の句もここの動詞 "eripuit" にかかるものである。

et de omni exspectatione plebis Iudaeorum.
またユダヤ民衆のあらゆる(悪い)期待から(救い出してくださったのだということが〔を〕)

【詩篇唱】

Domine probasti me,
主よ,あなたは私をお試しになりました,
一言:
 今回に限ったことではないが,ラテン語テキストで完了形になっているものは素直に完了形として訳している。ヘブライ語原典にさかのぼれば時制のしくみが違う云々の話は承知しているが,グレゴリオ聖歌成立期の人々にそんな知識があったとは思われず,彼らはただラテン語で書いてある通りを受け取っていたのだろうと考えるからである。ただしもちろん,グレゴリオ聖歌は今の私たちの典礼の中で歌う歌でもあるのだから,当時の人々が考えていたことにとらわれる必要もないとは思う。今回のテキストでいうと特に "cognovisti sessionem meam [, et resurrectionem meam]" は意味からして現在形に訳したいところではある。

et cognovisti me :
そして私(がどういう者であるか)を認識なさいました。

tu cognovisti sessionem meam[, et resurrectionem meam].
あなたは私が座るのを〔,また私が立ち上がるのを〕認識なさいました。

【逐語訳】

 朗読・暗唱したい方などのため,今回は母音の長短も示すが,古典ラテン語でははっきり行われていた母音の長短の区別は時代が下るにつれて廃れていったので,教会ラテン語には保たれていない部分も多いらしい。そういうわけで,あくまで参考程度のものと思っていただきたい。

【アンティフォナ】

Nunc 今,今こそ,いまや

sciō 私が知っている(動詞scio, scireの直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)

vērē 本当に

quia(英:接続詞that)
● 本来は "because" の意味で用いられる語だが,教会ラテン語ではこの用法もよくある。

mīsit 遣わした,送った(動詞mitto, mittereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

Dominus 主が

Angelum suum 自分の(彼の)使いを(Angelum:使者を,suum:自分の)

et(英:and)

ēripuit 引き離した,救い出した(動詞eripio, eripereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

mē 
私を

dē manū Hērōdis ヘロデの手から(manu:手〔奪格〕,Herodis:ヘロデの)

et
(英:and)

dē omnī exspectātiōne すべての期待から(omni:すべての,exspectatione:期待〔奪格〕)

plēbis Iūdaeōrum ユダヤ民衆の(plebis:民の,群衆の,Iudaeorum:ユダヤ人たちの)

【詩篇唱】

Domine 主よ

probāstī あなたが試した(動詞probo, probareの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)
● これは特殊な形で,普通は "probavisti" である。

mē 私を

et
(英:and)

cognōvistī 
あなたが認識した,把握した,知覚した,経験した,試した,調べた(動詞cognosco, cognoscereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)

mē 
私を

tū 
あなたが

cognōvistī(同上)

sessiōnem meam 私が座るのを(sessionem:座ることを,meam:私の)

et(英:and)

resurrēctiōnem meam
私が立ち上がるのを(resurrectionem:立ち上がることを,meam:私の)
● この "resurrectio" は「復活」という意味でも用いられる語。

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