拝領唱 "Ierusalem, quae aedificatur ut civitas" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ10)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 370; GRADUALE NOVUM I p. 87.
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GRADUALE NOVUMは子音字としてのiをjで記すので,この拝領唱の冒頭は "Jerusalem, quae aedificatur ut civitas" となっている。
今回のは難しくて,ふだんとは段違いに多く調べたり考えたりした。しかしそれだけ面白いことになったので,長いけれどもいつも以上に是非お読みいただきたい。ついにはアウグスティヌスの『詩篇講解』(Enarrationes in Psalmos) にまで登場してもらっている。これはグレゴリオ聖歌の研究上重要な文献なので,いつか読むことになるとは思っていたけれども,単にテキストを訳しているだけのレベルで手を出すことになるとは思わなかった。
更新履歴
2020年6月8日 (日本時間9日)
導入部が誤りを含んでいたため,そこをすっかり削った (この削除との整合性を取るために本文も若干書き換えたが,そちらは内容的にはほぼ変わりない)。「アウグスティヌスは『詩篇講解』においては徹頭徹尾ラテン語聖書テキストに基づいて話しており,原語聖書や七十人訳聖書でどうなっているかには言及していない」などと書いてしまっていたのだが (「少なくとも今回の詩篇122 [Vulgataでは121] の講解では」と一応限定をつけていたとはいえ),これは明らかに誤解であることが,その後同書 (の,別の詩篇を講じている部分) を読んでいて分かった。中途半端な知識で思い込みを持って書いてしまったことをお詫び申し上げる。
現在の本シリーズの方針に合わせてタイトルを変更し,導入部で新旧典礼での使用機会を述べるという形にした。(→ 2023年4月26日:現在の方針に合わせ,これは「教会の典礼における使用機会」の部を設けてそこで述べる形にした。)
関係詞に導かれる文を「関係文」と呼んでいたのだが,これはドイツ語文法特有の用語らしく,多くの人には馴染みがないと思うので,日本の英語教育において通用している「関係詞節」という語に改めた。
2018年11月23日 (日本時間24日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
この拝領唱は,現行「通常形式」の典礼では,四旬節第4主日 (原則としてB年のみ。朗読される福音書箇所による),年間第34週 (主日を除く。この週の主日には「王であるキリスト」を祝うため),「ラテラン教会の献堂」の祝日 (11月9日) に用いられる。これらのうち,本稿で詳しく読み解いてゆくこの聖歌テキストの深い意味との関係で最も興味深いのは「年間第34週」である。これは教会の暦において最後の1週間であり,教会暦の最後のほうでは終末 (世の終わり,キリストの再臨といったこと) に思いを向けることになっている,ということを頭の片隅において読み進めてくださると幸いである。
(「四旬節」「主日」「B年」「年間」とは何であるかについてはこちら。)
といっても,グレゴリオ聖歌が生まれた土壌である旧典礼 (1969年以前の典礼。現在も「特別形式」の典礼として有効であり,一部の教会で行われ続けている) においては,この拝領唱が現れるのは四旬節第4主日のみであって,教会暦の終わりのほうで現れるということはない。8~9世紀の聖歌書においても,1962年版のミサ典書においてもそうである。第2バチカン公会議 (1962–65) の後行われた典礼改革に対してはいろいろ言われており,私も思うところがないわけではないが,この点に関しては拍手を送りたい。
【対訳,解説,最終的に採りたい全体の解釈】
Ierusalem, quae aedificatur ut civitas,
(次の関係詞節で述べるような) 市民共同体のように建設されつつあるエルサレム,
別訳:(次の関係詞節で述べるような) 都市のように建設されつつあるエルサレム,
原語聖書ではどうやら「都市」「街」だが,アウグスティヌスを読むと「市民共同体」と訳したくなるし,"civitas" というラテン語を辞書で引くと最初に出ているのは「市民権」「市民全体」という意味である。
元テキストは詩篇第121篇 (ヘブライ語聖書では第122篇) 第3節。
cuius participatio eius in idipsum:
標準的な訳1:それ (市民共同体) がそれ (エルサレム) に一丸となって参与している (結びついている) [,そんな市民共同体のように建設されつつあるエルサレム]
標準的な訳2:それ (市民共同体) がそれ自身 (市民共同体) に一丸となって参与している (=結束が固い) [,そんな市民共同体のように建設されつつあるエルサレム]
奇訳1:それ (市民共同体) が彼 (主) に一丸となって参与してゆく (結びついてゆく) [,そんな市民共同体のように建設されつつあるエルサレム]
奇訳2 (アウグスティヌスが『詩篇講解』で示している解釈に基づき,テキスト本来の意味を読み取ることは二の次にした訳):それ (市民共同体) が「それ自体である者=不変である者」(「在りて在る者」,神) を目指してそれ ([天上の] エルサレム) に参与してゆく [,そんな市民共同体のように建設されつつあるエルサレム]
奇訳3 (奇訳1と2を合わせたもの):それ (市民共同体) が「それ自体である者=不変である者」(「在りて在る者」,神) を目指して彼 (主,もっと言うと天上のエルサレムの礎であるイエス・キリスト) に参与してゆく [,そんな市民共同体のように建設されつつあるエルサレム]
元テキストは詩篇第121篇 (ヘブライ語聖書では第122篇) 第3節。
illuc enim ascenderunt tribus, tribus Domini,
というのも,そこに向かって諸部族が,主の諸部族が上ったのです,
元テキストは詩篇第121篇 (ヘブライ語聖書では第122篇) 第4節。
ad confitendum nomini tuo, Domine.
御名に感謝するために (御名に信仰告白するために,御名を讃えるために),主よ。
元テキストは詩篇第121篇 (ヘブライ語聖書では第122篇) 第4節だが,Vulgataではこの直前に "testimonium Israel" (「イスラエルによる証し」あるいは「イスラエルのための定め」) という2語が入る。全体の中での位置づけが私にはよく分からないのだが,「~証し」という意味にとるならば,直前の "tribus Domini" の言い換えだろうか。最後の "nomini tuo, Domine (あなたのお名前に,主よ)"という2人称的な言い方は,Vulgataでは "nomini Domini (主の名に)"という3人称的な言い方である。
いつもより全体として分かりづらいと思うので,逐語訳に入る前に,最終的に私が採りたい解釈を先に示しておく。意味不明あるいは無茶苦茶だと思われても仕方がない解釈であることは重々承知である。どうしてこんなことになるのか,説明は下で詳しくするので,まだ画面を閉じないでいただけると嬉しい。
「天上のエルサレム,在りて在る者 (神) を目指し,礎である主イエス・キリストに参与してゆく (結びついてゆく) 市民共同体 (『生きた石』の集まり) のように建設されつつある都市。というのも諸部族が,主の諸部族がそこに向かって上ったのです,御名に感謝するために (自分たちも『生きた石』として天上のエルサレムに組み入れられるために),主よ。」
【逐語訳,アウグスティヌス対訳,考察】
Ierusalem エルサレム
単発でこの語が現れるので,呼びかけのように見えるが,続く関係詞節で3人称扱いになっている (動詞が "aedificatur") ため,そうではないと考えられる (直接呼びかけていれば2人称のはず)。
quae (関係代名詞,女性・単数・主格)
直前の "Ierusalem" を受ける。
"Ierusalem (Hierosolyma)" は手元の2つの辞書によると中性名詞だが,ここでは女性名詞扱いになっていることがこの関係代名詞から分かる。
aedificatur 建てられる,建てられつつある (動詞aedifico, aedificareの直説法・受動態・現在時制・3人称・単数の形)
今の普通の聖書では「建てられた」「既に建てられてそこにある」となっている (Nova Vulgataでは完了時制になっている) が,ここでは現在時制であるから,今まさに建設中である,ということになる。このことは後述のアウグスティヌスの解釈との関連でも重要である。
ut ~のように
civitas 市民全体,市民共同体;都市 (単数・主格)
対訳のところに書いた通り,この語はまずは「市民全体」すなわち人間のことであって,「都市」すなわち人間を入れる入れ物の意味は派生的なものにすぎないようである。アウグスティヌスはこの点に関してもいろいろ言っているが,今回はその話は割愛する。
次に "cuius participatio eius in idipsum" という関係詞節 (直前の "civitas" にかかると考えられる) の逐語訳に入る前に,この文の構造を見ておく。
ここには動詞が見当たらないので,英語でいうところのbe動詞が省略されていると考える (ラテン語にはよくあること)。修飾を取り払った主語は "participatio" で,これは3人称・単数なので,be動詞をそれに合わせた形 (特にほかの法・ほかの時制をとる理由もないので,直説法・現在時制として) にすると "est" となる。これを付け加えると,全体は "cuius participatio eius in idipsum est" となる。
Be動詞は (英語だとどうだか知らないが,少なくともラテン語では) 単に存在を示して「~がある,存在する」という意味のこともあり,その場合は主語と述語動詞だけで文が成り立つ。が,今回はそうではなく「~である」という意味だと考えられるので,補語が必要になる。しかし,今回の文においてどこからどこまでが補語なのかについては少なくとも2つの可能性が考えられ,一義的に決定することはできない。その2つの可能性のうち1つは「cuius participatio eius が in idipsum である」というものであり,もう1つは「cuius participatio が eius in idipsum である」というものである。しかし,どちらを取るにしても言っていることはだいたい同じになるので,あまり気にする必要はない。
では逐語訳に戻り,"cuius participatio" や "eius" や "in idipsum" が何を意味するのかを順に考えてゆく。
cuius (英:関係代名詞としてのwhose) (関係代名詞,単数・属格)
直前の "civitas" を受ける。
属格なので「~の」という意味が基本だが,同じ属格で「~への」という意味になることもある (目的語的属格)。次の "participatio" と合わせて,「civitasの参与 (civitasが何かに参与すること)」という意味にも,「civitasへの参与 (civitasに何かが参与すること)」という意味にも取れる。
participatio 参加,参与;結束,結びつき
eius それ (へ) の,彼 (へ) の,彼女 (へ) の (人称代名詞,単数・属格)
また属格。上の "cuius" 同様,「~の」という意味にも「~への」という意味にもなりうる。
上述の通り,この "eius" は "participatio" に直接かかっているととることもできるし,補語であると考えることもできる。前者であれば「"eius" の "participatio"」という意味になり,後者であれば「"participatio" は "eius" である」という意味になるが,どちらにせよ,"eius" が "participatio" を説明していることに変わりはない。つまり,一つの名詞 "participatio" を,2つの同じような要素 (属格の代名詞) である "cuius" と "eius" が説明している,という形になっているわけである。
"participatio" という語の意味からして,"cuius" と "eius" のうち一方が「~の」であり他方が「~への」である,と考えるのが自然であろう。「AのBへの参与」,すなわち「AがBに参与していること」というわけである。どちらがAでどちらがBなのか,理論上はいずれもありうるが,とりあえず "cuius" をA (「~の」),"eius" をB (「~への」) と考えることにする。さて,先の "cuius" は直前の "civitas" を受けるとして,"eius" が受けるものは何か。文法的には男性・女性・中性共通の語なので,単数である限りどんな名詞でも受けることができる (この点は "cuius" も同様)。次のような可能性が考えられる。
"IErusalem"
"civitas"
このCommunioには引用されていないが,もとの詩篇では少し前 (第1節) に現れる "Domini" (「主」,ここでは属格になっているがそれは今関係ない)
同じく第1節に現れる "domum" (「家」,ここでは対格になっているがそれは今関係ない)。上の "Domini" (「主の」) はこれにかかっているので,「主の家」ということになる。
順に見てゆく。
1は,「civitas (市民共同体) がエルサレムという都市に参与している/結びついている」ということ。これだけ見ると分かりやすいようだが,全体を読むとそのエルサレム自身がcivitasのように建設されつつある,と言っているので,混乱する。それにもかかわらず,後述のアウグスティヌスの言葉を読むとなかなか捨てがたい解釈である。
2は「civitasがcivitas自身に参与している/結びついている」という独特の言い方によって,結束の固さを表現しているということ。分かりづらいけれども,もとの聖書や七十人訳聖書にはどうやら最も近そうな解釈である。
3は強引だが,意味は通りやすい。「civitasが主に参与している (ゆく)/結びついている (ゆく)」。
4も同様,「civitasが主の家に参与している (ゆく)/結びついている (ゆく)」。Vulgataやこの拝領唱を3や4のような解釈に基づいて翻訳しているものは,私が見た限りでは見当たらなかった。つまり珍解釈ということになるが,分かりやすさだけでなくアウグスティヌスの言葉との関連からも,これまた捨てがたいと私は思う。
そのアウグスティヌスの言葉とは,次のようなものである。
要するに,建てられつつあるエルサレムとは天上のエルサレムのことであり,その礎はイエス・キリスト,そこに積み上げられる (積み下げられる?) 石は「私たち」だ,と言っている。"[...] cuius participatio eius" の "eius" を強引に「彼」すなわち「主」(礎であるイエス・キリスト!) ととって,「civitas (市民共同体/都市) が彼 (主) に参与してゆく/結びついてゆく」と解釈するのが捨てがたいものであることが,これでお分かりいただけるだろうか。
旧約聖書の一部である詩篇の言葉なのだから,「主」がイエス・キリストであるわけがない,というのは,普通に考える限りその通りだが,気にしなくてよい。聖書自体の解釈とキリスト教典礼用の聖歌であるグレゴリオ聖歌のテキストの解釈とは結局別の問題であるし,昔の人々の聖書の読み方は我々のそれとは異なっていたからである。また,同じ "eius" を「エルサレム」ととって「市民共同体がエルサレムに参与する」と解釈するのもアウグスティヌスとの関連で捨てがたい,と上に書いたが,これは「市民共同体」自体,すなわち人間自体が,アウグスティヌスの言葉からすると,都市エルサレムを建てる材料となる「石」だからである。
こちらの解釈によってこの拝領唱の最初からここまでを説明的に訳すならば,「人間自体が都市を建てる石になっているという意味で,市民共同体のように建設されつつある都市である,エルサレム」となる。
in idipsum 一緒に,同時に;「それ自体」に向かって
"idipsum" は "id ipsum" とも書き,「それ自体」という意味である。しかしそこに "in" がつくと,「一緒に」「同時に」という意味の熟語になる。
しかしアウグスティヌスは,もしかして意図的にだろうか,これを熟語ととらず,"idipsum" を文字通り「それ自体」ととって「いったい『それ自体』とは何のことだ」ということをとことんつきつめている。この語は難解だ,誰か理解できるものならしてみせてくれ,しかしまあどうにか近いところまで行けるよう努力してみよう,と言った上で,彼は次のように述べる。
「それ自体」=「あるあり方に留まり続けるもの (不変であるもの)」=「(絶対的に) 存在するもの」=「在りて在る者 (神)」,というわけである。まあ,牽強付会と言われても仕方がない議論だと思うが,しかしグレゴリオ聖歌の成立にあたって彼をはじめとする教父たちの聖書解釈は大いに影響しているというのだから,無視するわけにはゆかない。それに私は,無視したいとも思わない。単なる「一緒に」という意味の熟語として片付けてももちろんよいのだけれど,こうしていろいろ考えるのも面白いではないか。
以上,"eius" および "in idipsum" の奇訳と,その根拠となるアウグスティヌスの言葉とをお示ししたが,実はこういう方向の解釈 (「市民共同体/都市」が「主」に結びついているとか,「在りて在る者」を目指しているとか) をすると,次の部分にはきれいにつながるのである。「というのも,そこに向かって諸部族が,主の諸部族が上ったのです,御名に感謝するために」。「というのも」というのだから,「御名に感謝するため,主の諸部族がそこ (エルサレム) に向かって上ったこと」が前の文の説明になっているはずである。そして実際,主の諸部族が上ってくる,というイメージは,「生きた石」がどんどん集められて天上のエルサレムが建て上げられてゆく,というイメージに通じるではないか。「(天上の) エルサレム,在りて在る者を目指し,(礎である) 主 (イエス・キリスト) に参与してゆく (結びついてゆく) 市民共同体 (生きた石の集まり) のように建設されつつある都市。というのも,(自分たちもその生きた石として組み入れられようと) 主の諸部族がそこに向かって上ったのだ」,というわけである (「上った」が「上ってゆく」と現在形だったら完璧だったが,ここは完了時制が使われている)。さらに付け加えると,最後の「御名に感謝するために」というところは「御名に (信仰) 告白するために」と訳すことも可能であり (この動詞の本来の意味はむしろこちらである),するとアウグスティヌスが「生きた石として建て上げられなさい,とはどういうことでしょうか。あなたが信仰しているならば,あなたは生きています。さらに言うと,あなたが信仰しているならば,あなたは神の住まいとなるのです」と言っていることにつながる。「御名に感謝すること (信仰告白すること,讃美すること)」自体,天上のエルサレムを建てる「生きた石」となることだと言うことができ (念のため言うが,信仰告白の報酬としてそうしてもらえる,という意味ではない。神の名に感謝する,信仰告白するような状態そのものが,アウグスティヌスによれば「生きている」状態である,という意味である),そして「主の諸部族」はそのために (目的を表す構文が用いられている)「上った」というのである。
最後に,この拝領唱が教会暦上の一年の最終週に歌われるものだということに思いを向けたい。本稿のはじめのほうで述べたように,教会暦上の一年の終わりのほうでは,終末論的なことがテーマとされる。そうであれば,ここで歌われるのが単なる地上のエルサレムのことでなく,終末における完成を目指して建て上げられつつある天上のエルサレムのことであると考えるのは,実にふさわしいことであると思う。
残りの部分の逐語訳をして終わる。
illuc そこへ
enim というのも
ascenderunt 上った (動詞ascendo, ascendereの直説法・能動態・完了時制・3人称・複数の形)
tribus 諸部族が
tribus Domini 主の諸部族が (tribus:諸部族が,Domini: 主の)
ad confitendum 感謝するために,讃美するために,(信仰) 告白するために (confitendum:動詞confiteor, confiteriをもとにした動名詞の対格の形)
「ad + 動名詞」で目的を表す。
nomini tuo あなたの名に (nomini:名に,tuo:あなたの)
Domine 主よ