入祭唱 "Spiritus Domini replevit" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ79)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 252; GRADUALE NOVUM I p. 216.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
"Spiritus Domini" の2語で始まる入祭唱はほかに2つ存在するので,区別のために少なくとも第3語 "replevit" まで書くべきである。ただし,GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEX / NOVUMには今回扱う入祭唱しか載っていないので,意識しなくても問題ないことが多いだろう。
残り2つ (いずれも "Spiritus Domini super me" と始まる) のうち1つはLIBER USUALIS pp. 1579–1580,GRADUALE ROMANUM (1961) p. 564に,もう1つはGRADUALE ROMANUM (1961) pp. 57**–58** (**もページ番号の一部) に載っている。
更新履歴
2023年5月27日 (日本時間28日)
もとの聖書でこの入祭唱アンティフォナが置かれている文脈について,対訳の部で既に軽く触れてはいたが,「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部にもう少し詳しい説明を加えた。
2023年5月11日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1970年のOrdo Cantus Missae (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEX / NOVUMはだいたいこれに従っている) では,聖霊降臨の主日・日中のミサに割り当てられている。
ほかには,教皇または司教の選出のためのミサ (四旬節中を除く) や聖霊に関する随意ミサ (四旬節中を除く) で用いることができる入祭唱の一つとしても記されている。四旬節に用いることができないのは,この入祭唱が "alleluia (ハレルヤ)" を含んでいるためである (四旬節の典礼では「ハレルヤ」を一切口にしないことになっている)。
2002年版ミサ典書でも聖霊降臨の主日・日中のミサに割り当てられているが,"Caritas Dei diffusa est" との選択になっている。教皇または司教の選出のためのミサには,別の入祭唱が指定されている。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
こちらでも,この入祭唱は聖霊降臨の主日に用いられる。改革以前の典礼には「聖霊降臨の八日間」があり (ただし実際にはなぜか7日間で終わる),あるときからはその木曜日にもこの入祭唱が用いられるようになった。もともとはこの木曜日にはミサがなかったところに新設し,その際にだいたい聖霊降臨の主日の式文を流用した結果だという (参考:Volksmissale, p. 549 T)。
やはり教皇選出のためのミサや聖霊に関する随意ミサでも用いられる。こちらでは「四旬節以外」という条件はなく,そのため "alleluia" を除いたバージョンが存在する (LIBER USUALIS p, 1279; 1961年版GRADUALE ROMANUM p. [91] ← [ ] もページ番号の一部)。四旬節に限らず,復活節以外ならばこちらを用いることになっているようである。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Spiritus Domini replevit orbem terrarum, alleluia: et hoc quod continet omnia, scientiam habet vocis, alleluia, alleluia, alleluia.
Ps. Exsurgat Deus, et dissipentur inimici eius: et fugiant, qui oderunt eum, a facie eius.
【アンティフォナ】主の霊が世界に充満している,ハレルヤ。すべてを束ねているものは (人間の) 言語を知っている,ハレルヤ,ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱】神が立ち上がり,彼の敵どもが散らされますように。彼を嫌う者どもは彼の面前から逃げ去りますように。
アンティフォナの出典は知恵の書 (新共同訳聖書や聖書協会共同訳聖書でいう「旧約聖書続編」に属する文書の一つ) 第1章第7節であり,復活節特有の "alleluia" の付加を除けば,テキストはVulgataに一致している。ただし,もとの聖書 (Vulgataでも,原典であるギリシャ語聖書でも) では,これは理由・事情を示すときの接続詞に続いて現れる。
言葉は同じであるものの,もとの聖書で前後を読むと,アンティフォナだけ読んだときに感じられるのとはだいぶ違う意味合いだということが分かる。
このような監視・懲罰の文脈から,入祭唱のテキストはすっかり切り離されている。代わりに与えられている文脈は何かといえば,それは聖霊降臨祭そのものだといえよう。
この点での (さらに大胆な) 類例に,入祭唱 "Dum medium silentium" がある。
詩篇唱にとられているのは詩篇第67篇 (ヘブライ語聖書では第68篇) であり,テキストはVulgata=ガリア詩篇書に一致している。ローマ詩篇書では "qui oderunt eum" と "a facie eius" との順番が逆になっているが,意味は変わらない。
(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)
【対訳】
【アンティフォナ】
Spiritus Domini replevit orbem terrarum, alleluia:
主の霊が世界に充満している,ハレルヤ。
現在時制ではなく完了時制である。逐語訳の部で説明する。
たぶん誤解されないと思うが念のため書いておくと,「今まさに充満しつつある」ではなく「充満した状態にある」という意味である (満たすプロセスは完了している)。
et hoc quod continet omnia, scientiam habet vocis, alleluia, alleluia, alleluia.
そして,すべてを束ねているものは言語を知っている,ハレルヤ,ハレルヤ,ハレルヤ。
直訳:そして,すべてを束ねているものは声の知識を持っている,(……)
「すべてを束ねているもの」は「(世界に充満している) 主の霊」の言いかえだが,「者」ではなく「もの」(中性形。「者」であれば男性形か女性形,今回なら "Spiritus" が男性名詞なので男性形をとったであろうところ)。といっても,キリスト教の教義では聖霊も父なる神やイエス・キリスト同様に人格的存在者である (だからこそ「聖霊よ,来てください」などと聖霊に直接向かって祈ることも意味をなす)。
この部分にあたるのは "hoc quod continet omnia" で,"hoc" は文字通りには「これ」だがここでは漠然とした先行詞,quod以下がその内容を表す関係詞節である。つまり "that which keeps all things together"。もとの聖書では「主の霊は人の言語を知っているので,悪い言葉を口にする者どもが見逃されることはない」という文脈で現れる言葉だが,そのような文脈からはここでは切り離されている。そして聖霊降臨祭で歌われるとなると,聖霊を受けたときイエスの弟子たちが諸国の言語で話し始めたりペトロが別人のように堂々と公衆の前で説教したりしたこと (使徒行伝第2章) に関連づけるのが自然ではないかと思う。
【詩篇唱】
Exsurgat Deus,
神が立ち上がりますように,
ここから3文とも,述語動詞→主語 (→述語動詞を修飾する語句) という語順になっている。
et dissipentur inimici eius:
そして彼 (=神) の敵どもが散らされますように。
et fugiant, qui oderunt eum, a facie eius.
そして彼 (=神) を嫌う者どもが彼の顔から逃げ去りますように。
別訳:(……) 彼の姿から (……)
主語「彼を嫌う者ども」にあたるのは "qui oderunt eum" (英:those who hate him)。最後の "a facie eius (彼の顔から)" はこれを飛び越えて述語動詞 "fugiant (逃げ去りますように)" にかかる。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
Spiritus Domini 主の霊が,主の息が (Spiritus:霊が/息が,Domini:主の)
replevit 再び満たした,満たした/満ちている (動詞repleo, replereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
もとのギリシャ語聖書でもここは完了時制である。聖書ギリシャ語の (現在) 完了時制は,過去に起こったことの結果が現在も続いていることを表す (参考:銘形牧師の解説)。
ラテン語の完了時制にも同じ用法があり (こちらはそれだけではないが),意味の上からも今回はそのように解釈するのがよいだろう。つまり,「満たした (満たし終わった)」→「その結果,今は満たされた状態にある (満ちている)」ということになる。
ラテン語聖書テキストで完了時制ならギリシャ語聖書の対応箇所でもいつも完了時制かというとそうではなく,これまでの私のごく限られた経験からいうと,むしろ一回的・瞬間的な過去のできごとを表す時制 (直説法・アオリスト) のことが多い。
「再び満たした」という意味に取るならば,いったん堕落して神の恩寵を失ってしまった人類と世界に恩寵を回復してくださった,という意味合いを帯びることが考えられるが,もとのギリシャ語には「再び」という要素はない。
orbem terrarum 世界を
この2語は分解せず,全体で「世界」を表すものと捉えるのが適切なようだが,それでもそれぞれの語の意味を書いておくと "orbem" は「円を,輪を」,"terrarum" は「地の」(複数形) である。
というわけで "orbem" (<orbis) 自体は球でなく円を意味する語なのだが,Wikipedia (2023年5月11日時点) によると,地球が球体であることは,古代や中世にも多くのキリスト教知識人に知られていたらしい。
もとのギリシャ語 (τὴν οἰκουμένην) には形状に関するニュアンスはなく,文字通りには「住まれる地」の意である (「地」にあたる語はないが,本来あるのが省略されているだけ。参考:Wiktionary [2023年5月11日時点])。
alleluia ハレルヤ
et (英:and)
hoc ~であるところのものが (中性・単数・主格)
本来は「これ」という意味の指示代名詞だが,ここでは漠然とした先行詞として用いられており,直後の関係詞節でその内容が示される。
これを主語とする述語動詞はしばらく先の "habet"。
quod (関係代名詞,中性・単数・主格)
直前の "hoc" (今回は漠然とした先行詞) を受ける。
continet 束ねている,ばらばらにならないよう保っている;分かれたものを再び結びつける;(対象の) 状態を保つ;含んでいる (動詞contineo, continereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
omnia すべてのものを (名詞的に用いられている形容詞,中性・複数・対格)
ここまでが関係詞節。
scientiam 知識を
habet 持っている (英:has) (動詞habeo, habereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
主語はしばらく前の "hoc"。
vocis 声の
2つ前の "scientiam" にかかる。
alleluia, alleluia, alleluia ハレルヤ,ハレルヤ,ハレルヤ
【詩篇唱】
exsurgat 立ち上がりますように (動詞exsurgo, exsurgereの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
Deus 神が
et (英:and)
dissipentur 散らされますように (動詞dissipo, dissipareの接続法・受動態・現在時制・3人称・複数の形)
inimici eius 彼の敵どもが (inimici:敵どもが,eius:彼の)
et (英:and)
fugiant 逃げ去りますように,遁走しますように (動詞fugio, fugereの接続法・能動態・現在時制・3人称・複数の形)
qui (英:those who) (関係代名詞,男性・複数・主格)
先行詞なしでいきなり関係代名詞が現れている (ラテン語ではよくあること)。このようなときは,漠然とした先行詞 (今回は次の動詞 "oderunt" の形から複数の人であることが分かるので "those") を補って考える。「~である人」「~する人」ということになる。
oderunt 嫌っている (動詞odi, odisseの直説法・能動態・完了時制の顔をした現在時制・3人称・複数の形)
おそらく,もとは「過去のある時点で憎むに至った」→「その結果,現在嫌っている」ということで完了時制で現在の意味を表すようになったのだろうと思うが,そういうことは考えず単に現在時制扱いしてしまって問題ないし,そうすべきである (現在時制の形は消滅しており,辞書にも完了時制の形が見出し語として載っている。そういう動詞はほかにもいくつかあり,一部の活用形を欠くということで「不完全動詞」「欠損動詞」と呼ばれる)。
eum 彼を
a ~から
facie eius 彼の姿;彼の顔 (facie:姿/顔 [奪格],eius:彼の)
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