入祭唱 "Tibi dixit cor meum" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ32)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 88; GRADUALE NOVUM I pp. 69–70.
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更新履歴
2022年2月17日 (日本時間18日)
● ほかの方々の訳文などを見て改めて考えた結果,カギ括弧内に入れる範囲を変更した (もとはアンティフォナの最後まで入れていたが,1文だけ入れることにした)。しかし,どちらでも間違いではないことに変わりはない。
●「対訳」の部にある解説 (というより自由な考察) の一部を削除した。
● その他細かい修正・補足を行なった。
2022年2月3日
●「教会の典礼における使用機会」の部分をだいぶ書き直した (ついでに見出しをつけた) が,最後の長い断り書きを削除したことを除けば,含まれる情報は同じである。最後の長い断り書きというのは「旧典礼での入祭唱の使用機会については私は網羅的に把握していない」云々というものだったが,その後1962年版ミサ典書に基づく入祭唱使用機会表を作成してこの問題はほぼ解決したため,削除することにした。
● 音源を追加した (テキストと全体訳の下)。
● 対訳の "vultum tuum Domine requiram" の解説の終わりの部分を書き改めた (「ヘブライ語原典にはこのことはいえないかもしれない」というのをはっきり「いえない」とした)。
● 最後に「余談」を追加した。
● その他細かい修正を行なった。
2019年3月17日 (日本時間18日)
● 投稿
【教会の典礼における使用機会】
現行典礼 (「通常形式」のローマ典礼) では,まず,四旬節第2主日と「主の変容」の祝日 (8月6日) とに割り当てられている。後者はその名の通りイエス・キリストの姿が変わるという神秘的なできごと (マタイ17:1-9/マルコ9:2-10/ルカ9:28b-36) を祝うものだが,実は前者においても同じ福音書箇所が朗読される。このことから,現行典礼において今回の入祭唱 "Tibi dixit" はイエス・キリストの変容ということに何らかの意味で関連づけられているのがはっきり感じられる。なお四旬節第2主日には "Tibi dixit" ではなく "Reminiscere" を選択することもできるようになっているが,後者は長らくこの日に歌われてきた入祭唱であり,つまり昔からの伝統に従うこともできるように配慮したのだろう (もちろんそれだけではないかもしれないが。なおこの「昔からの伝統」については但し書きがある。"Reminiscere" の記事の導入部をお読みいただきたい)。
"Tibi dixit" はほかに,修道者の聖人を記念するミサで共通に用いることができる歌 (コンムーネ) の一つに指定されている。個別の聖人の祝日・記念日では,マグダラの聖マリア (7月22日) と聖マルグリット・マリー・アラコク (10月16日) に割り当てられている。さらに,「おとめの奉献や修道者の誓願が行われるミサ」で用いることができる歌の一つでもある。
旧典礼 (1969年のアドヴェント前まで一般に行われていたローマ典礼。現在も「特別形式」の典礼として一部で続けられている) では,この入祭唱は四旬節第2週の火曜日に割り当てられている。もしやと思い,この日に朗読される福音書箇所がどこなのかを見たが,変容の場面ではなかった。上記の通り,現行典礼での用法を見るとこの入祭唱はイエス・キリストの変容と密接な関係があるような印象を受けるのだが,伝統的には特にそう捉えられていたわけではなかったということが分かる。実際,旧典礼では主の変容の祝日にも別の入祭唱が充てられている。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Tibi dixit cor meum, quaesivi vultum tuum, vultum tuum Domine requiram : ne avertas faciem tuam a me.
Ps. Dominus illuminatio mea, et salus mea : quem timebo?
【アンティフォナ】あなたに私の心は言いました,「私は御顔を尋ね求めました」と。御顔を,主よ,私は探し求めましょう。御顔を私からそむけないでください。(※)
【詩篇唱】主は私の照らし,私の救い。私は誰を恐れることがあろう。
※ どこからどこまでをカギ括弧に入れるべきかは,原文から一義的に読み取ることはできない。
アンティフォナの出典は詩篇第26 (一般的な聖書では27) 篇第8節全部と第9節のはじめ4分の1であり,詩篇唱にも同じ詩篇が用いられている (ここに掲げられているのは第1節の一部)。
テキストはいずれもローマ詩篇書 (Psalterium Romanum) に (詩篇唱はVulgata/ガリア詩篇書 [Psalterium Gallicanum] にも) 完全に一致している。アンティフォナのテキストがVulgata/ガリア詩篇書と異なっている箇所は次の通りである。
● "quaesivi vultum tuum"「私は御顔を尋ね求めました」がVulgata/ガリア詩篇書では "exquisivit te facies mea"「私の顔はあなたを探しぬきました」となっている (動詞の訳語はとりあえずのものなので,あまり気にしないでいただきたい。それより,誰の「顔」なのかが異なっているということがポイントである)。
● "vultum tuum Domine requiram" の "vultum" がVulgata/ガリア詩篇書では "faciem" になっている。これについては,この文脈での意味は同じだと言ってよいだろう (「顔を」)。
なお,この入祭唱のテキストの全部が,復活節第7主日 (昇天祭と聖霊降臨祭との間の主日) の入祭唱 "Exaudi, Domine, vocem meam ... tibi dixit" にも含まれている。
【対訳】
【アンティフォナ】
Tibi dixit cor meum,
あなたに私の心は言いました,
quaesivi vultum tuum,
「私はあなたの顔を尋ね求めました」と。
解説:
原文には何の符号もついていないが,この文は「私の心」が「言」った内容であると考えられるので,カギ括弧を補っている。既に述べたように,どこまでをカギ括弧の中に入れるかは解釈次第であり,つまりこれより後の文をもカギ括弧に入れることも可能である。
vultum tuum Domine requiram :
あなたの顔を,主よ,私は探し求めましょう。
解説:
前の文にある動詞quaero, quaerere (>quaesivi) の意味とここの動詞requiro, requirere (>requiram) の意味とは,手元の辞書を見る限り,かなり重なるようである。とりあえず違う訳語をあてようと思ってこのように「尋ね求める」「探し求める」と訳し分けたが,quaero, quaerereにも「探す」という意味があるし,requiro, requirereにも「尋ねる」という意味があるので,本当にとりあえずである。
ne avertas faciem tuam a me.
あなたの顔を私からそむけないでください。
解説:
facies (>faciem) を手元の辞書で引くとまず「姿,形,外見」という意味の訳語が載っており,その後にやっと「顔」と書いてあるのだが,ここでは文脈上「顔」という意味にとるのがよいだろう。つまり "vultus" (>vultum) と同じということになるが,実際,このラテン語詩篇のもとである七十人訳ギリシャ語聖書においては一貫して同じ単語 (πρόσωπόν) が用いられている。
できれば "vultum" と "faciem" とで訳語を分けたかったところだが,「(御) 顔」のうまい言い換えを思いつかないので仕方ない。
考察:
以上,短い中に3度も「(神の) 顔」という語が出てくるアンティフォナだったが,現行「通常形式」の典礼がこの入祭唱をイエス・キリストの変容に関する日 (四旬節第2主日と主の変容の祝日) に割り当てているのは,まさにそのためなのだろうか。そして,変容のできごとが示したのは将来の栄光である (こう単純に言ってよいのかどうか知らないが,とりあえず)。それを示した「顔」を「(探し/尋ね) 求める」とは,復活祭を目指す四旬節の中で変容という要素を見事に生かしたものといえないだろうか。
【詩篇唱】
Dominus illuminatio mea, et salus mea :
主は私の照らし (照明),私の救い。
別訳:主は私の照らし (照明),私の健やかさ。
別訳:主は私の光,私の救い。
解説:
英語でいうbe動詞が省略されている。「~である」と補ってもよい。
"salus" を辞書で引くとまず載っているのは「健康」という意味であるが,「救い」というのも出ている。七十人訳では「救う者 (σωτήρ)」となっている。
"illuminatio" は「光」と訳してもよいようだが,「光」という意味の語としてはより一般的と思われる "lux" や "lumen" があること,"illuminatio" は「照らす,明るくする」を意味する動詞illumino, illuminareからきている語であることから,むしろ「照らし」「照明」と訳したい。
考察:
「照らし (照明)」は,イエス・キリストの変容のとき「衣が真っ白に輝いた」ということに結び付けて考えてもよいだろうし,また,「照らし (照明)」は「啓示」を連想させ,この世ならぬものが3人の弟子たちに特別に見せられたということで,この意味でもやはり変容のできごとと関連づけることが許されるのではないかと思う。
quem timebo?
私は誰を恐れることがあろうか。
解説:
修辞疑問文 (「私は誰を恐れることがあろうか,いや誰をも恐れることはない」)。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
tibi あなたに
dixit 言った (動詞dico, dicereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
cor meum 私の心が (cor:心が,meum:私の)
quaesivi 私が探した,私が尋ねた,私が究めた,私が求めた,私が憧れた,私が得ようと努めた,私が必要とした,~がないので私が満たされなかった (動詞quaero, quaerereの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)
vultum tuum あなたの顔を (vultum:顔を,tuum:あなたの)
vultum tuum (同上)
Domine 主よ
requiram 私が探そう/探すであろう,私が求めよう/求めるであろう,私が尋ねよう/尋ねるであろう,私が調べよう/調べるであろう,私が必要とするであろう,~がないので私が満たされないであろう (動詞requiro, requirereの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
● 接続法・現在時制も同形。
ne avertas そむけないでください (neは否定詞。avertas:動詞averto, avertereの接続法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
● 接続法・現在時制・2人称は,このように「命令」を表すことがある。
faciem tuam あなたの顔を (faciem:顔を,tuam:あなたの)
a me 私から (me:私 [奪格])
【詩篇唱】
Dominus 主が
illuminatio mea 私の照らし (照明) (illuminatio:照らし・照明 [主格],mea:私の)
● 動詞的に訳せば「私を照らすもの」。
et (英:and)
salus mea 私の救い,私の健康 (salus:救い/健康 [主格],mea:私の)
quem 誰を (疑問代名詞,男女性・単数・対格)
timebo 私が恐れよう,私が恐れるだろう,私が恐れることになる (動詞timeo, timereの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
【余談】
現行「通常形式」典礼では用いられなくなった (したがって今の聖歌書には載っていない) "Veni de Libano, sponsa mea" という入祭唱がある。
雅歌第4章からの引用で,花婿が花嫁に呼びかける言葉である。伝統的な解釈に従えば,神/キリストがその民 (あるいは個々の霊魂) に対し抱く愛が表現されているということになる。
この "Veni de Libano" に,実は "Tibi dixit" の旋律が流用されている (音節数などの都合でうまくゆかないところは適宜調整しつつ)。"Tibi dixit" は人間が神の御顔を慕い求めるという内容で,いわば人間の神への憧れを歌うものだといえるが,この "Veni de Libano" では逆に神の人間への憧れともいうべきものが歌われているのが興味深い。そして,(少なくとも1962年版ミサ典書と1961年版GRADUALE ROMANUMで) この入祭唱が指定されているのが幼子イエスの聖テレーズ (幼きイエズスの聖テレジア,小さき花のテレジア,リジューの聖テレーズ) の祝日だというのはなかなか味わい深いものがある。
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