入祭唱 "Reminiscere" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ31)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 81; GRADUALE NOVUM I pp. 70–71.
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更新履歴

2022年2月11日 (日本時間12日)
●「教会の典礼における使用機会」の部を全面的に書き改めた。

2019年3月13日
● 投稿
 


【教会の典礼における使用機会】

 現行「通常形式」のローマ典礼 (現在のカトリック教会で最も普通に見られる典礼) では,四旬節第1主日の次の水曜日と四旬節第2主日に歌われるほか,典礼暦関係なしに,戦時などの非常事態に際してのミサで用いることができる歌の一つでもある。四旬節第2主日には "Tibi dixit cor meum" という入祭唱を用いることもできる。

 (8~)9世紀の聖歌書 (AMSにまとめられている聖歌書) では,明確に読み取れる限りでは,この入祭唱は四旬節第1主日の次の水曜日にのみ割り当てられている。四旬節第2主日はどうなのかというと,この日のミサの式文自体が存在していない ("Dominica vacat")。といっても,この8~9世紀の時点では実際には四旬節第2主日にもミサが行われ,今回の入祭唱が歌われていたのではないかと思われる (後述)。いずれにせよこれには,今のカトリック教会 (少なくとも私が経験してきた範囲の) ではかなりの程度忘れ去られている「四季の斎日」というものが絡んでいる。
  「四季の斎日」というのは春夏秋冬それぞれのはじめに祈り・断食・慈善に励む日のことであり,専用のミサの式文も用意されている。1つの季節につき3日あり,特定の週の水・金・土曜日に行われる。そのうち春のものは四旬節第1主日の次の水曜日から行われるよう定められている。つまり,今回の入祭唱 "Reminiscere" が割り当てられたのは本来ただの水曜日ではなく,「四季の斎日」の水曜日である。
 そして,古くは「四季の斎日」の土曜日には夜遅くにミサを始めてそのまま日曜に入っていたため,日曜固有のミサはなかった。四旬節第2主日の式文がもとは定められていなかったのは,このような事情によるものである。
 時代が下って「四季の斎日」の次の日曜日にもミサを行うようになったとき,ほかの日の式文が流用された。四旬節第2主日の場合には,大部分,直前の水曜日のものを用いることになった。入祭唱 "Reminiscere" は,このような経緯で四旬節第2主日にも歌われるようになったのである。
 
なお,このようにして四旬節第2主日のミサ式文が定められたのは5世紀のことだという (参考:Volksmissale, p. 184 T)。そうであれば,(8~)9世紀の時点では,たとえ聖歌書に "Dominica vacat" と書いてあっても,実際には主日ミサを行い "Reminiscere" を歌っていたのではないかと思う (後の時代と異なりまだ公式の統一規範がなかったので,地域による違いがあったということなのかもしれないが)。10世紀 (9世紀説あり) の聖歌書の一つ (Laon 239) が,この主日のところに "DOM[INI]C[A] VACAT" と記しながら,続けて "Reminiscere" をはじめとする一連の固有唱を記しているということが,さらに強くそう思わせる。

 以上「四季の斎日」について記したことは第2バチカン公会議後の典礼改革が行われる前の話であり,改革後もこれが廃止されたわけではないものの,その運用は各教区に委ねられるようになっており,私が経験してきた限りでは (すなわち,少なくとも東京大司教区・Regensburg教区・Münster教区では) 実際にはほとんど意識されなくなっている。「四季の斎日」の存在自体,私は本シリーズの執筆などのため典礼暦の勉強を深めるようになって初めて知ったくらいである。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Reminiscere miserationum tuarum, Domine, et misericordiae tuae, quae a saeculo sunt : ne unquam dominentur nobis inimici nostri : libera nos Deus Israel ex omnibus angustiis nostris.
Ps. Ad te Domine levavi animam meam : Deus meus in te confido, non erubescam.
【アンティフォナ】思い出してください,主よ,世界のはじめからあるあなたの同情とあなたのあわれみを。私たちを私たちの敵どもが支配することが決してありませんように。私たちを解放してください,イスラエルの神よ,私たちのあらゆる窮境から。
【詩篇唱】あなたに向かって,主よ,私は私の魂を高く上げました。私の神よ,あなたを信頼します。私が赤面することになりませんように。

 アンティフォナにも詩篇唱にも,詩篇第24 (ヘブライ語聖書では第25) 篇が用いられている。
 GRADUALE TRIPLEXは,アンティフォナに引用されている節として,引用順に第6節・第3節・第22節を挙げている。このうち第6節と第22節はまず間違いないが,第3節についてはよく分からない。本当にこの節の引用なのだとしたら,かなり自由な翻案だということになる。

neque irrideant me inimici mei
また,私の敵どもが私をあざ笑うことがありませんように。

詩篇第24 (25) 篇第3節前半 (ローマ詩篇書もVulgata=ガリア詩篇書もここは同じ)

これがアンティフォナの "ne unquam dominentur nobis inimici nostri"「私たちを私たちの敵どもが支配することが決してありませんように」のもとだというのだが,詩篇で「私」だったものが「私たち」になっているし,何より,敵がしないように願われていることが「あざ笑う」ことでなく「支配する」ことになっている。この詩篇第24 (25) 篇第3節を元テキストとみなすことに疑問なしとしない。もっと内容の近い聖書箇所がどこかにないかと "dominentur" (および似たような意味の "dominantor"), "unquam" (および同じ語の別形の "umquam") でVulgataに全文検索をかけてみても,それらしい箇所は見つからなかった。
 検索ワードとして用いた "dominentur" は動詞の接続法・現在時制の形で,"dominantor" は命令法第2式 (命令法・未来時制) の形である。諦め悪く,さらに直説法・現在時制の形 "dominantur" でも検索をかけてみたところ,次のような箇所があった。

Et fruges ejus multiplicantur regibus quos posuisti super nos propter peccata nostra: et corporibus nostris dominantur, et jumentis nostris secundum voluntatem suam: et in tribulatione magna sumus.
そして,その〔=私たちにあなたが与えてくださった肥沃な地の〕実りは,私たちの諸々の罪ゆえにあなたが私たちの上にお立てになった王たちのために増えています。そして彼らは私たちの身体と私たちの家畜を意のままに支配しています。それで私たちは大いなる苦悩のうちにあるのです。

ネヘミヤ記第9章第37節 (Vulgata)

異邦人の王たちが自分たちを支配し,本来自分たちに与えられていた肥沃な地の実りも,家畜も,自分たちの身体そのものも彼らのものになってしまってしまっている。重要なのは,そのような状況が「私たちの諸々の罪ゆえ」であると考えられていることである。これを背景に入祭唱の問題の箇所「私たちを私たちの敵どもが支配することが決してありませんように」を読むと,この言葉が四旬節にふさわしい悔悛の意味を帯びてくるからである。
 さらに,この節の最後の文「それで私たちは大いなる苦悩のうちにあるのです」も,今回のアンティフォナの最後の文「私たちを解放してください,イスラエルの神よ,私たちのあらゆる窮境から」と容易に関連づけることができるだろう。これも,ネヘミヤ記第9章を背景にして考えるならば,「窮境」から「解放」されることは悔い改めと結びついていることになり,四旬節にふさわしい。
 上に引いた第37節にとどまらず,ネヘミヤ記第9章全体をも読んでみると,これが全体としても今回の入祭唱に通じる内容を持っていることが分かる。ここに全文を載せるとあまりに長くなるので,お手元の聖書または日本聖書協会のサイトなどにあるオンライン聖書をお読みいただきたい。神の業が天地創造から振り返られ,神が昔の日々に示した好意,イスラエルの民が自らに背いてもなお神が示し続けたあわれみ,それでもなお悪い行いを改めないためついには苦境 (奴隷の身分) に陥ったイスラエルの民の現状,そしてその状況からの救いを求める叫びが記されている。これはまさに "Reminiscere miserationum tuarum, Domine, et misericordiae tuae, quae a saeculo sunt"「思い出してください,主よ,世界のはじめからあるあなたの同情とあなたのあわれみを」という今回の入祭唱の初めの部分そのものではないか。
 また,こうして神とのかかわりにおけるイスラエルの民の歴史を振り返った上で,再び問題の「私たちを私たちの敵どもが支配」云々という言葉に戻ると,当然バビロン捕囚という出来事に思いを向けさせられる。すると,もう1本の補助線を引くことができそうである。

バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。

詩篇第137 (Vulgataでは136) 篇第1–4節 (新共同訳)

ここで,「敵ども」が「私たち」を「支配する」ことと「あざ笑う (嘲る)」こととが分かりやすく結びつく。ここまで考えれば,先ほど疑問符をつけた詩篇第24 (25) 篇第3節を問題の箇所の元テキストとみなすのも悪くないと思える。(厳密なことをいうと,上に引用した箇所のうち「わたしたちを嘲る」というところは,ローマ詩篇書でもVulgata=ガリア詩篇書でも全く違う訳になっているので,この「嘲る」という語自体を私の議論の根拠にすることはできない。しかし,バビロンの民がイスラエルの民に故郷の歌を歌えと言ったということ自体は同じであり,この行為自体が嘲ること・ばかにして笑うこと以外の何ものでもないので,結局同じことである。)

 詩篇唱に引用されているのは同詩篇の第1–2節で間違いない。グレゴリオ聖歌にある程度親しんでいらっしゃる方はすぐお気づきだろうが,これはアドヴェント第1週の入祭唱・奉納唱にも現れる言葉である。

 最後に,元になっているのがローマ詩篇書 (Psalterium Romanum) かVulgata=ガリア詩篇書 (Psalterium Gallicanum) か (それともほかの何かか) を考える。今回の入祭唱に関係ある詩篇第24 (25) 篇第1–3, 6, 22節のうち,第1節と第2節については,両詩篇書のテキストは一致している。第3節は上で見たように大きく書き換えられているため,ここで検討する材料とするには適さない。残る第6節と第22節について比較を行う (句読点はもともとはないものなので,比較にあたってよけいな検討材料が入らないようにすべて取り除いた。大文字・小文字の使い分けも統一した)。まず第6節である。

ローマ詩篇書:reminiscere miserationum tuarum Domine
et misericordiae tuae quae a saeculo sunt
Vulgata=ガリア詩篇書:reminiscere miserationum tuarum Domine et misericordiarum tuarum quae a saeculo sunt
入祭唱:reminiscere miserationum tuarum Domine et misericordiae tuae quae a saeculo sunt

太字の部分以外は一致している。ごらんの通り,ここは明確にローマ詩篇書に軍配が上がる。次に第22節である。

ローマ詩篇書:redime me Deus Israhel ex omnibus angustiis meis (買い戻してください [救い出してください],私を,イスラエルの神よ,私のあらゆる窮境から)
Vulgata=ガリア詩篇書:libera Deus Israel ex omnibus tribulationibus suis (解放してください,神よ,イスラエルを,そのあらゆる苦悩から)
入祭唱:libera nos Deus Israel ex omnibus angustiis nostris (解放してください,私たちを,イスラエルの神よ,私たちのあらゆる窮境から)

Vulgata=ガリア詩篇書では,"libera"「解放してください」という動詞の目的語になりうるものがほかに見当たらないため,"Israel" をそれに充てることになり,その結果,上の和訳で示したとおり "Deus Isra(h)el" という部分の解釈がほか2つとは異なるものとならざるを得ない。さらに,最後から2番目の語がVulgata=ガリア詩篇書だけ "tribulationibus" となっている。これらのことから,どちらかといえばローマ詩篇書がもとになっているように思われる。ただし,最初の語についてはローマ詩篇書の "redime" ではなくVulgata=ガリア詩篇書の "libera" が入祭唱に入っているし,ローマ詩篇書で 「私」であったものが入祭唱では「私たち」となっている (直前の文に合わせたものだろう)。第3のラテン語訳詩篇があったのかもしれないし,そうでないにせよ写本によって両詩篇書の要素が混ざってしまったなどということも考えられる。しかし第6節のほうも考え合わせて,とりあえずは,全体としてはローマ詩篇書がもとになっており,細かいところで改変が加えられたり (もしかするとほかの詩篇書の要素が入ったり) している,と考えればよいのではないだろうか。
 

【対訳】

【アンティフォナ】

Reminiscere miserationum tuarum, Domine, et misericordiae tuae,
思い出してください,あなたの同情を,主よ,またあなたのあわれみを,
自然な日本語の語順に直した訳:主よ,あなたの同情とあなたのあわれみを思い出してください,

quae a saeculo sunt :
世界のはじめからある (あなたの同情とあなたのあわれみを)。
別訳:永遠の昔からある (あなたの同情とあなたのあわれみを)。
解説:
 前の "miserationum tuarum" と "misericordiae tuae" を受ける関係詞節。
 "a saeculo" が何を意味するかについて見当をつけるため,Vulgataにこの句が出る箇所をすべて洗い出し,それぞれをDRA (Douay-Rheins 1899 American Edition) がどう訳しているかを見てみた。結果は次のとおりだった。
Gen 6,4: of old
Ps 24,6: from the beginning of the world
Ps 40,14 (a saeculo et usque in saeculum): from eternity
Ps 89,2 (a saeculo et usque in saeculum): from eternity
Ps 92,2 (a saeculo tu es): from everlasting
Ps 105,48 (a saeculo et usque in saeculum): from everlasting
Ps 118,52: of old
Sir 39,25 (a saeculo usque in saeculum): from eternity
Sir 44,2: from the beginning
Sir 51,11 (memoratus sum misericordiae tuae Domine, et operationis tuae, quae a saeculo sunt): from the beginning of the world
Is 61,4: of old
Is 63,16 (a saeculo nomen tuum): from everlasting
Is 64,4 (a saeculo non audierunt): From the beginning of the world
Jer 2,20: Of old time
Jer 7,7 (a saeculo et usque in saeculum): from the beginning
Jer 25,5 (a saeculo et usque in saeculum): (for ever and ever)
Dan 2,20 (a saeculo et usque in saeculum): from eternity
Luc 1,70: from the beginning
Joh 9,32 (a saeculo non est auditum): From the beginning of the world
Act 3,21: from the beginning of the world
Act 15,18: from the beginning of the world
このように,"from the beginning (of the world)"「(世界の) はじめから」 と訳されている箇所が比較的多く,"a saeculo (et) usque in saeculum" というフレーズの中で用いられている場合は "from eternity/everlasting"「永遠の昔から」となっている。ほかに,「永遠」と解釈しないと神学的にまずい場合もそうなっている (神 [の名] の存在が話題になっているとき)。あとは単に "of old (time)"「昔の」と訳されているところも少しある。
 今回は「あなた (神) の同情とあわれみ」が話題になっている。素直に考えれば,「同情」や「あわれみ」が現れるのは被造物が存在し始めてから (もっといえば,人間が罪を犯すようになってから) だろうから,ここは「(世界の) はじめから」と訳してよいだろう。上で見たとおり,DRA (Ps 24,6) もそうしている。もちろん,「同情」や「あわれみ」は愛の一つの形であり,その愛によって天地創造自体も行われたのだ,という方向で考えるならば,天地創造以前から,すなわち「永遠の昔から」と考えることもできなくはないし,単純に「神は永遠かつ不変である,だからその同情・あわれみも永遠かつ不変である」と考えることもできるだろう。しかし,先に見たネヘミヤ記第9章のように,単に神の業を振り返るのでなく神と自分たちとのかかわりを振り返って「思い出してください」と言っているとするならば,天地創造以降のことに限定するほうが気持が入ってよいのではないかと私は思う。

ne unquam dominentur nobis inimici nostri :
私たちを私たちの敵どもが支配することが決してありませんように。

libera nos Deus Israel ex omnibus angustiis nostris.
私たちを解放してください,イスラエルの神よ,私たちのあらゆる窮境から。

【詩篇唱】

Ad te Domine levavi animam meam :
あなたに向かって,主よ,私は私の魂を高く上げました。
別訳:あなたに向かって,主よ,私は私の魂を起き上がらせました。
解説:
  
「高く」にあたる語は原文にない。ただ「魂を上げました」とするとなんとなく違和感があったので (私だけかもしれないが) 付け加えただけである。

Deus meus in te confido,
私の神よ,あなたを信頼します,

non erubescam.
私が赤面することになりませんように。
別訳:私が赤面することはないでしょう。
解説:
 動詞が,接続法・現在時制でも直説法・未来時制でもありうる形をしている。七十人訳を見る限りは前者ととるほうがよさそうである。
 

【逐語訳】

【アンティフォナ】

reminiscere 思い出してください (動詞reminiscor, reminisciの命令法・受動態の顔をした能動態・現在時制・2人称・単数の形)

miserationum tuarum あなたの同情 (複数) を (属格)
● 動詞reminiscor, reminisci (>reminiscere) が属格目的語をとるため,属格になっている。

Domine 主よ

et (英:and)
● "miserationum tuarum" と "misericordiae tuae" とを並列している。

misericordiae tuae あなたのあわれみ (単数) を (属格)
● これも "reminiscere" の目的語なので属格になっている。

quae (関係代名詞,女性・複数・主格)
● これだけだと,すぐ前に "misericordiae" という女性・単数の名詞があるため,この関係代名詞はそれを受ける女性・単数のものかと思われ,実際,女性・単数・主格の形も同じ "quae" である。しかし,少し先に進むと述語動詞 "sunt" があり,これは複数の形なので,必然的にその主語であるこの関係代名詞 "quae" も複数だということになる。ということは先行詞も複数でなければならず,したがってこれは直前の "misericordiae tuae" だけでなく,それと並列されている "miserationum tuarum" をもまとめて受けていると解釈できる。

a saeculo (世界の) はじめから / 永遠の昔から
● ここの解釈については,対訳のところで詳しく検討した。
● "saeculum" (>saeculo) という語自体には,「人の寿命」「時代」「世紀」「長い期間」「永遠」「一時代の人類」「世代」「この世」「(目に見える) 世界」などの意味がある。

sunt ある (英語でいうbe動詞。動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・3人称・複数の形)

ne unquam 決して~ない

dominentur 支配しますように → 上の "ne unquam" と合わせて,「決して支配しませんように」(動詞dominor, dominariの接続法・受動態の顔をした能動態・現在時制・3人称・複数の形)
● 接続法によって祈願文をつくっている。

nobis 私たちを (与格)
● 動詞dominor, dominariが与格目的語をとるため,与格になっている。「私たちにとって支配者であることが決してありませんように」と訳せば,ここに与格を用いる感覚が分かりやすい。

inimici nostri 私たちの敵たちが (imimici:敵たちが,nostri:私たちの)

libera 解放してください,自由の身にしてください (動詞libero, liberareの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

nos 私たちを

Deus Israel イスラエルの神よ
● "Israel" は無変化。

ex omnibus angustiis nostris 私たちのあらゆる窮境の中から (omnibus:すべての/あらゆる,angustiis:狭いところ/困難な状況 [奪格],nostris:私たちの)

【詩篇唱】

ad te あなたに向かって (te:あなた [対格])

Domine 主よ

levavi 私が上げた,私が起こした,私が軽くした (動詞levo, levareの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)

animam meam 私の魂を (animam:魂を,meam:私の)

Deus meus 私の神よ (Deus:神よ,meus:私の)

in te あなたを
● 次の動詞 "confido" を補い,「誰を」信頼するのかを示す。

confido 私が信頼する (動詞confido, confidereの直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)

non erubescam 私が赤面しませんように / 私が赤面することはないでしょう (nonは否定詞。erubescam:動詞erubesco, erubescereの接続法・能動態・現在時制・1人称・単数の形,または直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
● 接続法・現在時制ならば「赤面しませんように」(祈願文),直説法・未来時制ならば「赤面することはないでしょう」。

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