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生徒会が体現する「民主制」
はじめに
皆さんの学校では、「生徒会」はその機能を果たしていますか?
生徒会は我が国の社会の仕組みを学ぶため、小さな「民主制」の場でなくてはなりませんが、
今回は、生徒会の存在理由と、とりわけ「校則」との関係において果たす機能を改めて振り返ってみたいと思います。
生徒会
生徒会は全校生徒から成る組織で、その内部に、会員(=全校生徒)から選ばれて総意を代表する本部役員と、同じく会員から委託を受けて特定の専門的な仕事を行う「委員会」をいくつか持つのが一般的です。
またその構成に教員は含まれません。
したがって、生徒は自分が生徒会の一員であることを、教員は自分が生徒会の部外者であることを、それぞれ自覚しなければなりません。
この共通認識は、意外に忘れられがちです。
校則の妥当性
ところで、生徒はときに「校則」によって自由が制限されることを受け入れなければなりません。
校則が持つ強制力がどこからくるのか、生徒が理解することも大切です。
実はそこにも、生徒会の機能があります。
法律に従わされる根拠
現実の社会で、主権者たる私たちが法律によって自由を制限される根拠は何でしょうか。
それは根本的には、
「自分たちで決めたルールだから、自分たちで従おう」
ということなのです。
我が国では、選挙を通じて代表者として選ばれた国会議員が、議論を通じて法律を制定するわけですから、
私たち国民は、法律を「(間接的に)自分たちで決めている」ことになるわけです。
校則に従わされる根拠
民主制を体現する生徒会も、この構造を踏襲しています。
すなわち、
選挙を通じて代表者として選ばれた「本部役員」らが、議論を通じて校則を制定するわけですから、
「自分たちで決めたルールだから、自分たちで従おう」
が成立するのです。
裏を返せば、校則の制定に生徒会が意見する場がない(=何者かに押し付けられた校則である)ならば、その校則は強制力を持たないことになりますし、
仮にそれが強制力をもつならば、その学校は民主制ではなく、君主制を体現していることになってしまうでしょう。
民主的側面と教育的側面
民主的な議論を目指すあまり、教員が校則に意見できないのもまた危険です。
「人格の完成」を目指す途上にあるはずの生徒を完全な一人格とみなして、校則の議論を生徒会に「丸投げ」するような事態は、「教育」としての倫理を欠くこととなります。
生徒会員でこそありませんが、教員や地域住民も、指導者であり、ステークホルダーなのですから、校則に意見があって当然です。
民主制を体現させつつ、一方では完全に体現させてはならない。
その「民主的」側面と「教育的」側面とのバランスについて常に考えを巡らせなければならないのが、難しいところです。
ここ数十年にわたる「教育的」側面の暴走が、最近の「ブラック校則」の議論を生みましたが、
今後は「民主的」側面が強く押し出されすぎて教育的意義を失ってしまうことにも、注意が必要になるのではないでしょうか。
そのときにはぜひとも、「個人の自由」と「集団の規律」の関係を、子どもたちと一緒に考えていただきたいのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。