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「上手な文章を書く」の危険性と無意味

 編集者のスキルとはいろいろとあります。そしてお伝えしているように、現代に求められる編集者像もいろいろと変化してきました。

 本来「集めて編む」のが編集者の仕事。情報をまとめる、原稿をまとめる、原稿を文章へと編むのが仕事です。

 そうなるとライティング能力は不要にも思えますが、往々にして編集者はライティングはそこそこ上手です。

 でも、個人的には「上手に書くこと」が含む危険性、そして無意味さに気付いています。読書感想文の例で語ります。

■なぜ学校教育は「綺麗で耳心地のいい文章」を目指すのか

 こういう見出しを付けると「そうだそうだ!!」という意識高い方が集まってくるかと思います。けれど実際は学校だって評価をしないといけないシステム。先生が気に入る文章を書いた人が勝ちです。

 そうは言っても読書感想文は私は日本の学校教育から根絶すべきくだらないものだと思っています。

 学校教育に関わる機会を長年いただいていますが、多くの先生方は「正しいか」「正しくないか」で読書感想文を判断しています。

 夏目漱石の名著『吾輩は猫である』。どえらい凄い作品です。なんせ1900年代初頭にして動物視線、しかも猫の語り口もいい。

 そんな名著をひとりの学生(正確には高校生までは生徒、小学生は児童)が「くだらない」と読書感想文で書き下ろした。僕はその視点自体は嫌いじゃなかった。いかにも反抗期真っ盛りの青臭い視点。

 けれど先生が下した評価は「再提出」。

■嫌いなものを好きと言わせるのは感想文じゃない

 正直に申し上げて、私は『吾輩は猫である』を読むのは結構苦痛。猫が500ページも延々と語っていると思うと気が狂いそうになる。まだドストエフスキーの『罪と罰』のほうがいいんじゃないかとすら。

 それはさておき前述の学生。くだらないと書いた理由は「結局人間が人間をこき下ろすためにネコの視点を借りているに過ぎない」というもの。

 きっとコラムニストがインタビューでこう応えたら100点だ。でも先生は「再提出」。

 なにがダメだったか聞けば「そのような感想を求めていない」とのこと。これは全国的にリアルに起こっている読書感想文の授業の一場面だ。学生の意見に耳を傾けない、そして理解しようともしない。

 だから文章を書くことが嫌いになる。書店で「最強の作文術」みたいなショーもないハウツー本が並ぶことになるわけ。

 だから個人的には読書感想文というもの自体はとってもくだらないと思うのだけど、まあ先生に気に入られる感想文を書けるのは非常に勉強ができるともいえる。いや、「賢い」、か。

■「上手な文章」は誰目線かを考えるべき

 さて少々毒を吐きましたが、上手な文章は誰に伝えたいかを想定しながら書いてほしいと思います。私はこの原稿を編集者になりたい人、若手編集者、教育関係者、はたまた学生を想像して書いています。

 皆さんが「あー」「あるよねー、そういうの」なんて思えるシーンを描写と共に書いています。

 上手な文章はなにも比喩表現や語彙力でもなし。相手を見つめて書くことだと思います。読書感想文って感想を先生に伝えるために書くもの。先生に気に入られる文章ではないですよね。

 そういうことです。

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