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思い出すたび、じわりと嬉しい言葉
見てくださって、ありがとうございます。
えだまめです。
こちらは、大阪。さらさらとした雨、湿度はそれなり。
こんな日は、バスの窓辺でイヤホンから流れる音楽に耳を傾けながら、昔のことをぼんやりと思い出したりする。
雨の日のバスはちゃんと正しい道順を行っているはずなのに、迷子のような気分になる。人並み以上の方向音痴の私が1人で歩いていたら、迷子にもなるけども。
優しい
「やさしい」って、むつかしい。
ずっと、考えていること。
小学生低学年の頃は、「やさしい」と言われたら、嬉しかった。勝手に、「優しい」の漢字に変換して考えていた。それを言われるたびに、「いいことをしたんだ」と誇らしく思った。
私は、ファーストネームに「優」という字が入っている。優しい子でありますように、そう願って付けられたと聞いている。
だから、「やさしい」と言われるたび、名前の通りの人だと言われているようで、嬉しかった。
優しい子であろうと、次も優しくしようと思った。
やさしい
私がこの言葉を聞いて喜ばなくなったのは、いつからだろうか。
私は、決して「優しい」子ではないと知ってしまった時だろうか。「優しい」にも、色々な種類があって、ただ耳障りの良いことを言って相手が望んでいるだろう行動を取ることと、必ずしもイコールじゃないことを知った時だろうか。
私は気づいてしまった。
「やさしい」と言われるが、それは「優しい」ではなく、「易しい」だと。
つまり、相手のやり易い人だと言われている。
そりゃそうだろう。
私は、相手のことなんか考えていないのだから。私は、自分のことしか考えていない。
相手に嫌われないように、顔色を伺って、大きく揉めないように。それだけを考えている人間が、「優しい」はずがない。
なるほど、そうか
自己嫌悪に陥った時、上記のようなことをつらつらと友達に言ったことがある。
「いや、えだまめは優しいんじゃなくて、配慮してるんやと思う。」
それを聞いた私はぼーっと、真面目な横顔をしていた友達を見た。
なんか、その時はピンと来なかった。
その後も色々言ってくれていたが、この言葉は私の耳にこびり付いて離れなかった。
当たり前じゃないのか。と思った。
それに、気を遣われているのだと思った。
だけど、当たり前じゃないのかもしれない、と帰ってから思った。
平気で、怒っている時に言い訳を言っているときに、被せてくる人だっている。
私はもしかしたら、「優しい」に振り回されていたのかもしれない。まるで、呪いのように。
この言葉はきっと、友達の優しさだ。
ありがたい。
…やっぱり、やさしいってむつかしい。
気づかないと、受け取れない。
見てくださって、ありがとうございました。
えだまめでした。