根なし草の京都
転勤族の一家に生まれて、あちらこちらで「よそから来た子」をくり返しているうちに、自分にはふるさとと呼べる場所がないことが判明した。ある学校で「ふるさとについて知ろう」と教わったことが、次の学校では誰も知らない、知っていたってしょうがない、無価値な情報になり下がるのも、新しい学校ではみんなが知っていることを、ひとりで覚えていかなくてはいけないのも、とても嫌だった。
どこの方言も身に付かないまま、なんとなく標準語らしき日本語で子ども時代を過ごして、そろそろ進路のこともあるからと定住した関西では、お高くとまっていると煙たがられることがあった。親切な同級生が関西弁の教師役を買って出てくれた。私が「明日、雨じゃん」と言うと、すかさず「また〈じゃん〉って言った」とチェックが入って、ネイティブの子のイントネーション指導のもとに、数回は「明日、雨やん」と反復練習が行われた。
みんな親切で熱心な先生だったから、今では私も自然と「聞いてや、こないだnoteで #この街がすき ってタグがあってんけどな、なんか書いてみよかなって思うねん」くらいのことはすらすら口から出てくる、ふんわり関西弁スピーカーとして生きてるんだけど、それでもやっぱりネイティブじゃないから、たまに「なんかキモい」って指摘されることはなくならない。私だってなんか違うなって思いながら話してるけど、もうとっくに標準語は第一言語じゃなくなっているし、どうすればいいのかちょっと分からない。
やっと定住できた関西の某所を、そこで育った父は私にふるさとと呼ばせたがった。でも、私は馴染みきれなかった。それよりも、一度も暮らしたことのない京都の方が、私にはよっぽど親しみやすかった。
実家を嫌って転勤族の夫を選んだ母だったけれど、私を産むときには京都に里帰りをした。だから私の出生地は京都だし、お宮参りをした神社も京都にある。京都で過ごした夏休みも少なくなかった。引っ越してしまえば、もうそのとき暮らしていた街には戻らないけれど、京都にだけは何度でも戻れた。たとえ数年に数日ほど滞在するだけの街だったとしても、じぶんの人生から消えて行かない場所があるとすれば、そこを故郷と呼びたいなって思うほど愛着を持っても、そんなに不思議じゃないと思う。
念願が叶って、京都にある大学のひとつに進学することができた私は、ほとんど有頂天だった。じぶんひとりで京都と繋がりを持つチャンスだった。しかも、大学にはいろんな街からやってきた、いろんな日本語、いろんな言語を話す学生がひしめき合っていて、狭いコミュニティのなかの狭い教室のなかで私を浮き上がらせていたものは、ぜんぶ目に見えないくらい小さな問題になってしまった。ちょっと会話すれば、その学生の出身地を当てられると豪語する日本語学の教授に「おまえのは分からん」と言われたときも、あの空気のなかではちっとも傷に響かなかった。幼かった引っ越し当時の私には、世界の果てに置いてきたように思えた街々の近くから、京都にやってきた学生たちが「ご近所さんだったんじゃん」って喜んでくれるのが、なんだかとても嬉しかった。
よそからお越しの学生はんとして4年を過ごし、京都を去ってから数年。当時の友だちとお酒を飲もうということになって入った酒屋さんで、目下のところの私の京都は完成した。
数年前にご主人の隠居で閉まってしまったその酒屋さんは、私が久しぶりに京都へ遊びに行くと知った母が「敷居は高いけど、お代はそれほど高くない、いいお店」と教えてくれた、少なくとも数代は続いている古いお店だった。べつに一見さんお断りっていうわけじゃないけれど、並大抵の胆力じゃ一見さんには開けられなさそうな、とても趣のある引き戸をスルーして細い路地を3往復してから、私と友人はやっと「ごめんください」と入店した。山盛りのお漬物を問答無用でテーブルに置きながら、単刀直入ながらも曖昧極まる質問を「どないしましょ」と投げかけてきたご主人は、事前にチェックしたレビューサイトで評判が悪かったのも当然の不愛想さだった。
どうもこうも分からないので、表情筋があるのかどうかも怪しい仏頂面のご主人にあれやこれやと質問して、やっとそのお店にお酒は一種類の日本酒しかなくて、質問されているのはその温度のことだと判明したときには、なんて恐ろしいお店に送り込まれてしまったんだろうと、友人に対して申し訳なくて、ほとんど母を責めるような気持ちになっていた。壁にかかっているお品書きには、なんと価格表示がなかったし、冷やで用意してもらった日本酒を出しに来てくれたご主人に訊いても「そんな高いことあらしまへん」としか言わないし、とても不気味だった。
不気味だったけれど、とりあえず頼んでみた菜っ葉やらジャガイモとタコやら根菜やらの炊いたんや、揚げ出し豆腐、うなぎの肝焼きがとにかく美味しくて、いざ食べ始めたら他の店に移るだなんて論外としか思えなかった。気が付けば、そろそろお店を閉めたいご主人に「〆はどないしましょ」とせっつかれていた。まだ9時にもなっていなかったけど、それがあのお店の通常の閉店時間だった。玉子のおじやと炊き込みご飯のどっちを頼んで、半分こしようと決めたときには、離れがたい気持ちになっていた。
おじやを待ちながら、学生時代のあれが楽しかった、さっきた食べたこれが美味しかった、まともに日本酒を飲んだのは初めてだったと話していると、調理場から「どこの学生さん?」と声が掛かって、振り返ったらご主人が笑っていらした。私は関西の某所、友人は関東の某所から来てるけど、京都のあの大学で一緒だったんですって答えると、ご主人は返事を聞いているのかいないのか分からないような様子で、ひたすら満足そうに「美味しかったやろ?」って笑みを深めた。その笑顔がなぜだか私の自信になって「母から聞いた通りでした」と答えたら、ご主人が「お母さん、京都の人なん?」とまたひとつ嬉しそうな顔をされて、それで私は、調子に乗って「私も京都の生まれです」って答えた。
ふたりして歩くのがキツいくらい食べたのに、追い出されるようにして請求されたお代は、びっくりしちゃうようなのものだった。
留学したとき、滞在許可証の申請用紙にKyotoと書いた。
出生地の欄を出生地の名称で埋めるのは当然のことだったけれど、日本だったら愛着もなにもない本籍地を書くような状況だったから、なんだかソワソワしてしまったのを覚えてる。出生地にも本籍地にも暮らしたことはないから、どちらもいわゆる「ふるさと」ではないわけで、こうやって「あなたはどこの人間なんですか?」と本籍地を訊かれても、いつもなんだか心許なかった。ましてや初めて問われた出生地。京都のほかにはないけれど、京都の人間を名乗るのは、京都で生きて京都のことばを話している母方の親族や、私をじぶんのふるさとの人間にしたがっている父、京都を出た母に申し訳ないような気がしていた。
でも今は、ずっと「あっちこっちに暮らしてたから……」と濁していた「あなたの出身地は?」という問いに、はっきりと「京都です」って答えられる。そのことに満足してる。
根なし草なのが心細かった子ども時代とは決別した。ずっと京都をふるさとって呼びたかった。京都のことばは話せないけど、私なりのやり方で繋がれていることが分かったから、私は大好きな京都のことを、じぶんの街だと思っていい。
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