暴君と仁君
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地上から地下に下りていく時のひんやりした空気に、そういえば一人で鯨土パークに来るのは初めてだなと気づいた。
この場所に来る時は、いつだって隣に森石がいた。その立ち振る舞いはとてつもなく静かで存在を疑いそうになるのに、斜め下から感じる視線だけは無視できない。あの感覚がないだけで心許なく思ってしまうのも妙な話だ。
素直に帰っておけばよかったかとも思ったが、どうしてもあのサブマサウルスが気になってしまったのだ。
俺からすれば生存本能を放棄した生ける死体だが、森石にとっては忘れ形見で、花柴にとってはこの町の住人を脅かす存在らしい。
動物が人を騙すことなんてできるのだろうか。擬態や死んだふり程度なら可能だろうが、それも緊急時や捕食時のような気がする。
空のケースを通り過ぎながらそんなことを考えていたせいで、先客に気づくのが遅れてしまった。
サブマサウルスのケースの前に、森石でも花柴でもない人間が立っていた。
年齢は五十代ぐらいで、髪はオールバック、地味ではあるがブランド品の時計を見つけた男だ。森石の父親である。その眼力だけで人が死ぬのではないかというほどの鋭さがサブマサウルスのケースに向いていた。そして、ケースの中には身を屈めて男と向かい合うサブマサウルスがいる。何度か鯨土パークには来ているが、その体勢で静止している姿を見るのは初めてだった。
迂闊に触れようともなら張り詰めた緊張の糸が指を切り落とすといわんばかりの雰囲気に、俺はこのタイミングで訪れたことを後悔してしまう。
これは、ちょっと、怖いな。
どちらが弱者で強者なのか。どちらが優位なのか。すぐには判断できなかった。冷静になれば、お互いを阻むケースの壁がある以上、勝負は無理だとわかったはずである。ただ、空気に気圧されていたのだ。
口角が持ち上がるのを感じながら、反射的に後ずさる。
先に視線を逸らしたのは森石の父親の方だった。俺と目が合うなり、微笑む。瞬間、軽い地響きとともにサブマサウルスがケースに突撃した。そうかと思うと、今度は大口をあげてケースに歯を立てる強大な頭が目に入る。剥き出しになった歯は白く鋭い。それでも獲物には届かず、ざらついた真っ赤な舌がケースに擦れただけだった。
鳥肌が立って動けなくなったが、恐怖心より興奮が勝った。
普段、伏せているようなサブマサウルスより、闘争本能がむき出しになっている状態の方が好きだ。たとえ、目の前に壁があろうとも迫力だけは失われていない。俺が好きな恐竜映画のティラノサウルスがまさにこれである。
コンと皺のある拳がケースにぶつかる音に、我に返った。
「サブマサウルスは好きかね?」
問いかけた声は、いつかのファミリーレストランで会った時と同じで落ち着いたものだった。初対面の時のスーツ姿とは真逆のラフな格好ではあるが、思わず姿勢を正さなければならないと思うような雰囲気は変わらない。
ちらりと頭をぶつけるサブマサウルスを見る。好きか嫌いかと言われると、答えに困る。番組でみたような大人しいサブマサウルスは嫌いだが、今、この場にいるサブマサウルスは好きだ。
「どちらでもないです」
「そうか」頷いた森石の父親がサブマサウルスを一瞥した。「私は絶滅して欲しいと願うほど嫌いだ」
拒絶の言葉は淡々と紡がれる。サブマサウルスの吐く息で、ケースが白く曇った。それを大きな手がゆっくりと撫でる。
それならなぜこの場に留まっていたのだろうか。何より、実の息子には手続きと金銭以外の干渉を禁じられているといったこの人が、この町にいることが不思議だった。
豪打との一件を羽衣おばさんから聞いたとか?
それで様子を見に来たのかもしれない。だとしたら、俺が最初にすべきことは、森石に怪我をさせたことやこれまで放置してきたことを謝ることではないだろうか。
「心配せずとも君は私の期待を裏切ってないなどいない」
考えていることを見破られたのか、俺が口にするより先に森石の父親は微笑んだ。
「今日は単純に生存確認をしに来ただけだ」サブマサウルスが尻尾を振った。ケースにぶつかる音は大きかったが、森石の父親は全く気にしていない。「元気そうで何より」
「サブマサウルスのことですか?」
「君も含めてだ。偶然とはいえ、会う手間が省けてよかった。できれば、息子に知られることは避けたかった」
ひとしきり暴れ尽くして疲れたらしい。サブマサウルスは頭を振ると、奥に消えていってしまった。
森石の父親に向かい合う。クリーム色を貴重としたシャツにプリントされている大きなウミガメを見ながら、亀が好きなのだろうかと思った。もらった名刺に書かれていた会社のマークも亀だったはずだ。
フルネームは知っているのだが、俺にとっては森石は森石で、かといってこの人の下の名前を呼ぶというのも恐れ多い気がしてできないままである。
「プライベートで来たのなら、会ってもいいと思いますけど」
俺と会うためにスーツを着てくる人だ。仕事帰りというわけではないだろう。
「そうしたいのは山々だが、今はタイミングが悪い。息子のことだ。今回の件が原因で、私が何かするつもりではないかと疑うだろう」薬指の指輪を撫でながら、僅かに瞼を下ろす。「昔はその役目は妻のものだった。そのせいか、どうにも私は加減ができない。その点を息子は気にしているようだ」
疑われるということは前に何かあったということだ。羽衣おばさんと一悶着あったことは知っているが、その言い方とサブマサウルスに向けていた視線を思うと、敵には回したくないなとつくづく思う。
「奥さんって」俺を遮るように森石の父親が口を開いた。「王冠のカンに草冠に化けると書いて冠花(かんな)だ」
「えっと、冠花さんって、このサブマサウルスを育てた人なんですよね」
何が気にくわなかったのかわからないが、あの森石の父親である。こだわりがあるのかもしれない。
「そうだ。元々、動物好きではあったが、サブマサウルスを育てたおかげで悪化した。実の子同然に育てた結果、その種の生態保護まで考えて行動するとなれば、相当だろう」
花柴の話を思い出すと悪化したというのはわかる気がした。俺がそこまで動物愛護の精神がないか、いい風には受け取れない。
「かといって、命まで賭ける必要があったのか。私にはわからない」
痛みを堪えるように眉を寄せた表情を眺め、俺は言外に含まれた意味をつい考えてしまった。
>サンプルはここまでになります。続きは本誌をどうぞ。