悪い奴は誰だ 4

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 俺が花柴と話すにあたって懸念しているのは、岡村の存在だ。
 岡村は花柴が何かろくでもないことをしているのは薄々感づいていて、俺がそれに巻き込まれることを避けたがっているようだった。
 本来なら昼休み前の時間に会うのが妥当なのだが、わざわざ四時間目が始まる前に待ち合わせたのもそれが理由である。お互い示し合わせて、全く違うタイミングで教室を出てから視聴覚室で合流することにしていた。
 今日のこの時間が空き教室であることは確認済みである。何よりあの場所なら防音設備が整っているのでちょうどいいと思った。
 こういうことはちゃんと考えて動くべきなのだが、今日しかないと思ったのだから仕方がない。俺だって万全の状態で臨みたかった。

 視聴覚室は前方と後方の二カ所に扉がある。どちらからも入れるように鍵は開けておく。室内は後方でも黒板がよく見えるように床が斜めになっているので、見晴らしがよかった。講演会でもあったのか、黒板の横に予備のパイプ椅子が一脚だけ立てかけてある。
 花柴が来るにはもう少し時間がありそうだったので、後方にある三人掛けの机にもたれかかる。扉を閉めると空調の音がよく聞こえた。
 頭痛はどうにか落ち着いたが、この先のことを考えると憂鬱になるべきなのか、興奮すべきなのか全くわからない。どちらにしろ、俺が我慢を強いられることだけは変わらないので、悲しむべきなのかもしれなかった。

 俺から見て斜め前の扉から入ってきたのは花柴だ。
「お待たせしましたか?」
「俺も今来たところだから平気だよ」
 机から身体を離そうとすると、花柴が俺の真っ正面に立った。
「それで、私とどんな話がしたいんですか?」
 口調は平然としているが、俺の表情をのぞき込む目に苛立ちが見える。
 俺もそうやって露骨な態度を取れたら今よりは楽に過ごせるだろうに、と羨ましくもなる。
「四組の黒板にあんなことを書いたのは花柴だよね」
 前振りは一切抜きにして、今日の俺にとっての最初の最悪について言及した。

 今朝、いつも通りに四組の教室を覗き見たとき、黒板に実にカラフルかつ隙間なくデコレーションされた悪意の文字が踊っていたのだ。詳細は覚えていない。読んだのだと頭の奥では認識しているが、そのあたりの記憶が抜け落ちていた。次の記憶は、蹴り飛ばした教壇が床に転がっていたのを見た時だ。ちゃんと片付けたので安心していたのだが、そんなことは全くなかったことを後で思い知ることになってしまった。
「証拠はあるんですか?」
「ないよ。ただ、テストの点数を見せ合う時に見る字と似ていたから、すぐに花柴がよぎったかな」
 あとは、昨日の放課後にすぐに教室を出た花柴が書くタイミングはなかっただろうということと、彼女なら俺より早く学校に行けるからだ。
 何より、黒板の文字が示す内容は森石のことだったが、俺の様子が動画にされているのを思えば、花柴以外の犯人が思いつかなかった。

「俺が来る前に書いたのなら、反応が見たかったんだよね。期待通りだった?」
 花柴は口を結んだまま俺を見ていたが、溜めていた息を吐き出すように笑った。いつものように口を隠さず、白い歯をむき出しする。俺の胸元を掴んで顔を寄せた。額より先に胸があたる。その感触より、熱のこもった息遣いに意識が向いた。
「少なくともそんな腑抜けた反応は期待してませんよ」
 異性に引き寄せられてキスをされないとは、本当にクソのような展開だ。
 前を見れば嫌でも目が合う。突き飛ばすのは簡単だったが、相手が女ならこの距離感はなかなかに悪くない。
「俺のこと誘ってんの?」
「誘ってますよ。ずっとずっと私は松毬くんが豹変するのを待っているのに、忍耐強く、自虐的に、理性的に見せているのが本当に苛々します」
「真意がわからないんだけど、この流れは襲って欲しいとしか聞こえないよ」
 もっとも、押し倒そうものなら噛みつかれそうである。襟を握る花柴の手からぎちぎちと音がするようだった。
 この女は俺の加虐心を煽る天才だな。
 その態度がどこまでできるのか試したくなる。その口から謝罪の言葉が切羽詰ったように吐き出されるのが見てみたい。
「興味なんてないくせによく言いますね」
「あるよ。俺はお前みたいなタイプが喚くのが好きだからね」
 言っておきながら、花柴相手以外には本心でも口にしたくないような発言だ。
 この女は好戦的だから、俺が怒りに任せてつい言ってしまったという振る舞いができるだけだ。普通なら言ってはいけないことだ。

 一瞬だけ呆けたような顔をした花柴がウフフと低い声で笑う。
「私も松毬くんの本性を引きずり出すのは好きですよ」
「これって相思相愛ってことかな」
「何言ってるんですか、お互い自分の欲望しか見えてないのに愛なんて言わないでください」
「ただの変態かと思ったら、意外とピュアなところもあるんだね」
「そうですね。私もなんで松毬くんに対してここまで執着しているのか、本気で疑問です。でも、初めて見た時から思ってたんですよ」
 花柴と初対面の時にどういうやり取りをしたのか全く思い出せなかった。そんな印象的なことをしただろうか。

「きっとこの人は怪物だって」

 理解より先に手が出た。思い切り突き飛ばすと花柴の身体が浮く。背中から椅子にぶつかり、痛みに呻きながら、それでも彼女は楽しそうだった。
「目つきが全然違うんですよ。他とは違う。松毬くんならこんな箱庭ぶっ壊してくれるんじゃないかって」
 椅子に手をついた彼女がゆらりと立った。蝋燭の炎を思わせる。頼りないように見るが、あれでも炎だ。何も燃やせないわけじゃない。
「なのに、勉強も運動も手を抜いて、森石くんの状況を知りながらも放置して、あんなこと書かれたっていうのに平然と授業を受けて、人がわかりやすく揺さぶってもこんなところで悠長に構えて、力があるのに使わないなんて馬鹿ですか!」
 明らかに個人的な希望から、森石を引き合いに出すのはおかしくはないだろうか。
 そもそも使わないのではなく、使えないのだ。正当な理由で使うタイミングを探してはいるもののどうにも上手くいかない。そこでさらに責められるのは、とてつもなく理不尽だ。

「なんで助けようとしないんですか! 今日の朝だって黒板を消す以外に、教室を荒らして帰るぐらいできたんじゃないんですか! わざわざ豪打を呼び出して一人で向かわせたっていうのに、何もせずに帰すなんて何を考えてるんですか!」
 髪を振り乱しながら花柴が叫ぶ声が室内に反響する。俺は奥歯で頬の肉を噛んで、口を閉じたままでいた。
「一番近くにいて、一番森石くんのことを知っていて、怒っているくせに! 耐えることに意味なんてあるんですか!」
 言い切ったのか、花柴が一息ついた。
 その間に握り締めていた手を指先一つ一つ意識しながらゆっくりと解く。
 鼓膜がひりひりする。女のヒステリックさが、俺は大嫌いだ。
 やっぱり、豪打を誘導したのも花柴だったか。こうなると黒幕は花柴ということにして、一発ぐらい殴っても許されるのではないだろうか。

「俺が豪打と何を話してるのか聞いたの?」
「聞いてませんよ。近くにいたら豪打がうるさいですし」
 それならよかった。そうじゃなかったら、俺の誘いに乗らなかっただろうけど。
 薄く笑った俺の背後でけたたましい音が響く。驚いた花柴が飛び上がるのを見てから、振り返った。

 入ってきたのは四人の同級生だ。一人は最後に入ってきた豪打、その斜め前方左右に金髪と茶髪の取り巻きの二人、その少し前で突き飛ばされたのか座り込んでいるのは森石だ。
 どう考えても状況は悪いのに、森石は三人を見ながら無表情のままだった。すでに何度か床に転がされたのか、制服の各所に汚れがついているのがわかる。俺たちの存在には気づいてないようだった。
 本当に、嫌になるほど、よく見える場所だ。

「いい加減、白状しろよなぁ。森石ぃ」
 間延びした口調で豪打が言い、取り巻きの金髪が立ち上がろうとした森石の肩を蹴り飛ばす。
「なん、で」
 立ち上がった花柴が豪打たちの姿を見つけ、掠れた声でつぶやいた。
 これは彼女にとっては計算外のことだ。
「そういう風に打ち合わせたからだよ」
 俺の声にその場の全員の視線が向いたが、一番反応が早かったのは森石だった。
 どういう反応をするのか気になって見ていたが、森石が驚いたのは一瞬だけである。薄らと開いた口が俺の名前で動いたが、誰も反応しなかったので声は出てなかったのだろう。
 相変わらず、俺の予想とは全く違う反応をする同居人だ。もう少し動揺してもよかったんじゃないかと思う。

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