プロローグ ートカゲー
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息子には黙っていて欲しいと先に告げたその人は、俺が見てきた大人もどきとは違っていた。
向かい合っているのに見下ろされている気分だ。見下ろしたつもりになっている人間なら今までに数え切れないほど見たが、それとは全く違っていた。
実際、相手が敵意を持っているわけでも、こちらを見下しているわけでもない。ましてや、俺が子どもだからという目で見ているわけでもない。ただ向かい合って座っているだけだ。その雰囲気に俺が圧倒されて、勝手に見下ろされていると思い込んでしまっているだけである。
もしかしたら、これが本物の大人という存在かもしれない。
男は高級スーツを身に纏い、白髪の見当たらない真っ黒な髪をオールバックに固めていた。年齢は手の皺と顔からするに五十代ぐらいだろうか。身につけている装飾品は多くないが、どれもブランド品である。馬鹿みたいに軽い音楽が流れるファミリーレストランには不釣り合いな人だった。本来、懐石料理店やホテル最上階のレストランにいるべき人だ。
にも関わらず、俺のような子どもに時間を割いて、さらには携帯電話の電源を落としてまで話をしようとするのは、それほどまでに大事な話なのだろう。
男は俺が今度ルームシェアをすることになった相手――森石(もりいし)の父親だった。俺にとって、父親という生き物は家庭に関する一切に関心がなく、金さえ家に持ってくれば一番偉いと勘違いしている存在だ。あの生き物がたまに家庭的なことをしたら、浮気か妻に怒られたかのどちらかである。
目の前の人はどれにも当てはまらなかった。相手が森石の父親だと知らなかったら、過去に関わった件のどれに関係する人なのか突き止めようとしたに違いない。場合によっては、殺される可能性を考えたぐらいだ。
聞けば、どういう手段を使ったのか、俺に関することは全部知っているらしかった。テーブルに置かれている書類は、俺が忘れているようなことまで記載されていて、近況に関していえば尾行されていたとしか思えないものである。
先日、俺の周囲をうろつく怪しいおばさんがいたのでちょっかいをかけたが、この書類のために嗅ぎ回っていたのかもしれない。
だとすれば、この話し合いは、森石のルームシェアの相手として俺は相応しくないという内容だろう。それ以外にこんな場を設ける意図がわからない。
そう思うとなんだか面白くなかった。俺は欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れる性格だ。過ちを繰り返さないためのルームシェアだったが、どうやっても過去が付きまとうというのなら俺の改心に意味なんてない。
思わず舌打ちをして、太刀打ちはできないと知りながらも俺はテーブルから身を乗り出した。その一切の感情を見せない顔を睨みつける。
「そんな紙切れ一つで俺のことをわかった気になってんじゃねえよ」
こんなことを言っても本物の大人には爪痕すら残せないのはわかっていた。
本物の大人というものは、子どもの全力の噛みつきに対して元気だなと笑えるぐらいに余裕のある人間だ。
全くもって動揺しない目に怯みそうになるのを堪えていると、俺の倍以上生きてきたことを窺わせる目尻の皺が溝を深めた。
やっぱり、何の傷も与えられやしない。少しばかり悔しくもなるが、どこかで安心している俺もいた。理由はよくわからない。
「ところが、息子は応募者の紙切れから君を選んだ」
先程までの重々しいものとは違った楽しげな声が告げる。
「私は不誠実な人間が嫌いだ。君が選ばれた事実は、息子にとって汚点になるだろう。そう思った」
言いながら、俺の情報が羅列された紙切れの端を両手で掴んだ。そのまま縦に引き裂く。紙の繊維がちぎれる音が鼓膜に染みつくようだった。
「息子の親は私だけだ。にも関わらず、以前、私は息子に対して失敗をおかしてしまった」
失敗といわれて真っ先によぎったのは、森石の顔にあった傷だった。刃物で切りつけたようなそれは、森石が喧嘩とは無縁そうに見えただけあって、印象的だったのだ。
「同じことを繰り返したくはなかったからこそ、過保護を承知で私は息子の意思を捻じ曲げようとした。だが、それまで私のいうことには逆らわなかった息子が、今回は最後まで首を縦に振らなかった」
縦長の紙切れが綺麗にまとめられていく、今度はそれが横に裂かれていった。
目の前の大人の話し方は絵本を読み聞かせる母親を思わせた。何かとても大事なことを伝えるための柔らかい色をした意思のこもった声だ。
俺はそれを聞くために腰を下ろす。
「息子が自分を変えたいと私に頼み、それならどうすべきかを何度も話し合った。その結果がルームシェアの募集だ。友達を知らない息子が他人と生活するということだけでも素晴らしいことだ。さらに、明確な意思をもって相手を選ぶというのは、それだけでも大きな変化だ」
俺は森石がルームシェアをすることになった経緯を知らなかった。
提出した応募用紙には、書類に必要そうな項目の他に健康状態や嗜好に関するものがいくつかあった。最後の質問の応募動機に、俺は「変わりたいと思ったから」と一言だけ記入したのだ。長々と説明する方が履歴書としてはいいのだろうが、そうなるとボロが出ると思ったのである。
「私は紙切れではなく、息子の意思を尊重することにした」
大きな両手が小さくなった紙切れをテーブルの中央にまとめていく。
「それらを踏まえて、私は君にお願いするために呼びつけたというわけだ。貴重な時間を割いてもらったことには感謝している」
印刷された粒のような黒の混じった白い山は、ただのゴミのはずだった。それなのに、これら一連のすべてが儀式めいて見えた俺には、あの山の中に悪魔の残骸が埋まっているような錯覚を覚えた。
妙な感覚だった。これだけ息子のことを大事にしているくせに、俺のことを知った上で任せるのかというのか。
矛盾していると思う。本当に大事にしたいのなら、不安の種は取り除くべきだ。それでも俺は立場上、それを言うことができない。
「お願いとはなんですか?」
普段は使わない敬語がするりと口をついたことに、自分で驚いてしまう。
反射的なものではあったが、この人と向かい合うのであれば、俺は相応の態度をとらなければならないと思った。
「私は息子に事務処理と金銭的援助以外の関与を一切禁止されている」憂いを帯びた表情は一瞬だけだった。「どうか息子をよろしくお願いします」
テーブルに額がついてもおかしくないほど頭を下げられ、俺は目を見開いた。
これはやらなくてもいい行動だ。この人はそんな頼み方をせずとも人を従わせる術を知っているはずだった。
俺は膝の上に両手を置いて、強く握りしめた。そうしないと震えてしまいそうだった。
逃げ出したくてたまらない気持ちになる。プレッシャーを感じたからではなく、単にどういう表情をしていいかわからないせいだ。
「……俺を信じてくれるんですか?」
本当は、俺ですら俺が信じられないと思っている。もしかしたら、俺のやろうとしていることは全部無駄なのではないか考えることだってあった。
それでも今の俺はこれ以外の方法を知らないし、やり遂げるしかないのだ。
答えはない。顔をあげたその人と目が合った。
熱くなった顔を隠すようにしながら、俺は意味も無く座り直した。
「なんで待ち合わせ場所をここにしたんですか?」
持て余した感情を誤魔化すように質問すると、その人は両手を軽く組んで微笑んだ。
「家族に関する大事な話はファミリーレストランですると決めている」
左手の薬指にはまったシンプルな銀色が光る。俺は嫉妬や妬みのような強さではなく、自分でも驚くほど素直な気持ちで羨ましいと思った。
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