いつもの学校生活 1
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最近、登校の際の日課ともいえる朝の下駄箱チェックを終えて上履き袋を片手に廊下を歩いていると、運動部の掛け声が窓の向こうから聞こえてきた。
朝はエネルギーのいる時間だ。一般的生活サイクルだと余計にそう思う。夜は闇に隠れることができて、布団に入れば何も考えない時間を過ごせる。本来は怠け者である俺が、そんな夜の後に朝日の眩しさに立ちくらみを起こすのだ。俺は朝がつらいものだとこの町に来て初めて知った。
それでも俺は運動部しかいないような早朝に学校へ行き、自分のクラスでもない四組の教室をガラス越しに覗く。
好きな作業ではないがやりたくてやっている事だ。不満があったところで、それをぶつけられる相手がいるわけでもない。
本当はこんなことより家で二人分の朝食と弁当を作り終えた後、あくび交じりにテレビを眺めていたい。それに対して、どうでもいいことを森石と話すことの方がよっぽど楽しいのだと思う。ゴールデンウィークまではそんな朝を過ごしていたのだが、今ではもう昔のことのようにも思えた。
ただ、今やっていることとそれのどちらが大事なのかと言われると、前者に少しばかり傾くので俺はこの日課をやめるわけにはいかない。
「また先を越されましたね」
職員室から持ってきた鍵を差し込んだ俺は、ほとんど習慣になった動作で隣を一瞥した。
わかっているなら姿の確認をしなくてもいいのだろうが、俺はその点に関して慎重なのである。
薄い笑みを浮かべた花柴と目が合った。
俺の方が早いような言い方をしているが、いつもタイミングが同じだとわざとしか思えない。
基本的に俺の生活リズムは決まっている。花柴が本気になれば先に来ることなど簡単なはずだ。彼女が朝をどう過ごしているかは知らないが。
そもそも四月の時はどちらかというと遅刻ギリギリだったはずなのに、なぜ急に生活リズムを変えたのか。俺が変えた理由はこの日課のためだが、花柴にもそうしなければいけない理由ができたのだろうか。
「おはよう、花柴」
微笑んで挨拶した俺は扉を開け、花柴に道を譲る。
レディーファーストの精神は大事だ。後ろに立てば俺の表情も見えなくなり、背後から殴りかかることだってできる。
「おはようございます。松毬くん」
両手で軽くコートの端をつかんで持ち上げた花柴が、左右の足を交差させて会釈した。うふふと笑いながら口元に手をあてる。
動物園の時とは別人のような態度だ。
花柴の厄介なところは、森石がいる時は俺に対しての扱いが悪いのに、いない時はさも仲がいいかのように近づいてくるところだ。
「松毬くんには燕尾服が似合いそうです」
「それは紳士的ってことかな?」
「仮面舞踏会が似合いそうという意味ですよ」
背中を蹴り飛ばせたらいいのにと思いながら、茶色いリュックを背負う花柴を見送った。
俺が隠したいのは顔ではなく、自分の本性そのものだ。
「それはお互い様じゃない?」
「わかってないですね。私は嘘をつきませんよ」
「嘘をつかないことが本音を言っていることにはならないからね」
「それでも嘘をつかないのなら、仮面を被っていることにはなりません」
「やましいことがある人間は口元を隠すらしいよ」
席に向かっていた花柴が振り返った。後ろ手に扉を閉めた俺を見る。
「口の中を晒すのは喰らう時だけでいいとは思いませんか?」
お前はティラノサウルスでもなければ、肉食獣でもないだろ。
そんな風にいつでも噛みつけるような態度をしながらも、花柴にそこまでの強さはないはずだ。
彼女の態度は威嚇に見せかけた防御でしかない。
「無駄口を叩く時でも純白の歯がよく見えるから、そんなに変わらないと思うよ」
「私、そんなに口を開けていますか?」
「俺からすればだいぶね。そんなに俺のことが気になる?」
「ええ。とても気になります」
花柴は指を上に向けて口元を隠しながらうふふと笑った。
「毎朝、ご丁寧に人様の靴箱から物を取っている行為を見て、無関心でいられると思いますか?」
違う形で何度も問いかけられた疑問に対して、今回も答えを教えるつもりはない。
「悪いけど、花柴が求めるような面白い答えはないよ」
「答えを知らずとも面白いので大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのか。
大丈夫なものなんてどこにもない。少なくとも俺が大丈夫なんかではないのだ。
右手にある上履き袋に遠心力をくわえて、悠長に構えている花柴の頬を抉ってやりたい気分である。
勝手な話だ。わかっているから、俺は我慢を強いられている。それでも欲求に任せて行動できないかわりに、頬の内側を噛んだ。
「松毬くんがこのクラスで一番おいしいと思います」
「それはまたいくらでも深読みできそうな話だね」
「血の匂いがするというだけですよ」
俺は唇の端を親指で拭った。どこにも指摘されたような赤はない。
「鮫か、お前は」
「いいえ。私はただの二足歩行の生き物ですよ」
教室の後ろから二列目の席に花柴がリュックを置いた。俺も鞄の荷物を出すべく、彼女の隣に移動する。
「いつまで傍観者でいるつもりなんです?」
「何の話かな?」
なんのことかわかってはいたが、すっとぼけてやった。
スマートフォンがメールの受信を知らせる。二度寝による遅刻防止のために、森石には家から出たらメールするように頼んでいるのだ。
最初は本文もあったが大変そうだったので、途中から本文なしでいいと伝えていた。ただ、俺が何言わないうちから件名には数字が四ケタにスペースが一つ、その後に四ケタの合計八桁が入力されていた。聞いてみればただのメモだと言われ、もしかしたらメッセージが隠されているかもしれないと試行錯誤したが意味はわからなかった。
毎日、違う数字にしているのは理由があるのだろうか。
「もしかしたら、血生臭い話になるかもしれない件ですよ」
俺も薄々思っていることではあるが、考えたくない話を花柴が口にする。
相手が花柴であることをいいことにセクハラ発言でも返してやろうかと思ったが、それは俺の目指す普通ではないのでやめておく。
「学生という身分である以上、俺は青臭い話の方が聞きたいな」
「あら、そういうのは嫌いそうに見えますけど?」
「嫌いなわけじゃないよ」
そういう考え方で生きられるのが羨ましいから、嫉妬しているだけだ。
中学生のころは、真面目に生きるなんて楽しみを知らない馬鹿か、臆病者が選ぶ道だと思っていた。
実際はそうじゃない。その方が一般的な大人に愛されるからだ。
「それなら、小さな箱庭の独裁者を叩き潰すというのはいかがでしょうか?」
できることならとっくにそうしてんだよ。クソが。
声を荒げそうになるのを飲み込むかわりに、俺は息を吐いた。
「女の子が叩き潰すなんてことは言わない方がいいと思うよ」
血圧が上がっているのが自分でもわかったので、窓を少しだけ開けた。
汗を滲ませている部活生が再び走らされているのを見ていると、それだけ頑張れば相応の結果が出るのだろうかと考えてしまう。
「本音としては喰い殺されてしまえばいいと思っていますから、それよりは優しい表現だと思いませんか?」
「それもそうだね」
喰い殺されるとしたら一瞬なのだろうか。俺としては少しばかり物足りない。
「松毬くんは忍耐強いんですね」
そうだな。お前が今も呑気に立っていられるのは、俺の我慢のおかげだ。感謝しやがれ。
心の中で毒づいて、いくら話し方だけ変えようと中身はちっとも成長しないんだなと落胆した。
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