一ノ瀬はじめを思い出す = f(舌打ち)
あらすじ:満員電車、理不尽な残業、言うことを聞かない子供。私たちの日常はいつもストレスにあふれている。ストレス、怒りに脅かされている私と周囲の人々への観察を経て、憤怒という大罪への向き合い方を探る。アンガーマネジメントのその先を見据えたい第八弾。/ やまびこ恵好
怒れる満員電車
いつも通りの帰り道だった。中央線の下り電車に揺られて、というか半ばイワシ缶のごとく詰め込まれて、私は自宅のある西の方角へと向かっていた。
先ほど停車してからというもの、ちっとも動き出す気配はなく、車内には乗客のイライラが充満し始めていた。そこに水を差すように、ちょっと鼻にかかった独特の声で女性車掌のアナウンスが流れr。
「ただいま急病のお客様救護のため、停車しております…」
発車は更に数分遅れるとのことだった。帰宅が遅くなるものの、まあこればかりは仕方がない。身体の前側に回していたリュックをそっと抱え直したその時だ。
「チッ」
突然、頭上でなにか音がした、というより人の声だ。
いいや、これは舌打ちだ。
ボイパ歴5年を数える私が言うのだから間違いない、あれは舌打ちだった。たちまち私の頭は、信じられないという気持ちでいっぱいになってしまった。
爆発するストレス
こうも人が多いと体調を崩してしまうのも頷ける話だし、別に病人も車掌もJRも、誰一人として悪くないはずだ。
責任をどうにかして誰かに擦り付けるとするなら、東京の過密化を抑えられなかった明治以降の政治家諸君まで時代を遡らなければならないだろう。
だというのに、あろうことか舌打ちである。
こうなってくると、それがどんな醜い口唇からひねり出されたものなのか確認したくなるのが人情というものだ。
私より背が高いとなると大方は男性だろう。豊満で脂ギッシュな中年か、嫌味な長身のメガネおやじか。
さて、恐る恐る眼球を操作し、ちろりとそのご尊顔を盗み見る。
しかしなんということだ。そこには立派なスーツに身を包んだ、三浦春馬似のイケメンビジネスマンが立っていた。
怒れる人に寄り添う
とんかちで頭をぶたれた気分だ。何が衝撃かって、自分が無意識のうちに「性格の悪い奴はどうせ顔も悪いんだろう」という、浅はかな先入観に支配されていたということにだ。当然、逆もまた然りである。
ガッチャマンクラウズの一ノ瀬はじめが、すかさず脳内で私を諭し始めた。「でもこの人、もしかしたら会社でめっちゃ理不尽なことがあった帰りかもしれないっスよ?」
©タツノコプロ / ガッチャマン クラウズ製作委員会
確かにそれもそうだ、私は急に恥ずかしくなってきた。
何も彼があのアナウンスだけを聞いて憤りを顕わにしたとは限らない。私はそれにかこつけて、自分の自尊心を満たそうとしてしまった。
私はいつもこうだ。脳内で勝手にマウンティング祭りが繰り広げられ、ちょっとだけスッキリした後、長い長い反省の時間がはじまる。
ストレス・ハザードの社会
悶々としているうちに、電車は再び走り出していた。
自意識が過剰も過剰なのだろう。いずれどこかでこの拘りは捨て去らねばなるまい。諸行無常、諸法無我、色即是空だ。
私はできるだけ男の方を見ないようにしながら、時折大きく揺れる人の群れの間で揉まれ続けていた。
次の駅に着くなり、乗客たちは先程までのイライラをぶつけるように、ドッと出口に殺到した。ドア付近に立つ大柄な男が不機嫌そうな顔でそれに抗う。
いやいや、一旦降りなはれやと諭す者はいない。まるでそこには誰もいないかのように、彼の脇や腕にぶつかりながら次々と降りていく。むしろ怒りに任せてあえて肩をねじりぶつけるオジサンまでいる。
まさに現代社会の縮図である。
自分の行く手を阻むものには対話なく実力行使に出る者。社会的合理性よりも己のポジションを必死に守りたがる者。そして私のように、それを斜めに眺めながらも流れに逆らえない者。
質量保存の法則
私を含む何人かが、たたらを踏みつつドアから吐き出された。そのうちの数人が順番にエスカレーターを降っていく。そしてホームに残っている人々は、このあと再び車両に回収される手はずになっていた。
しかしこれがなかなかスムーズにいかない。車両から降りた人数の分だけ増えたはずのスペースが、どういうわけか空いていないようだった。
ラヴォアジエが見たら、なるほど質量保存の法則というのは不完全な定理だったと納得してくれそうな光景だ。人間の質量が未知のエネルギーに変換された瞬間である。
仕方がないので、ドア付近の誰かを中に押し込めつつ、車内に侵入を試みる。私も後ろからぐいぐい押されて、あれよあれよという間に全員が乗り込み切った。
さっきまで隙間はまるで無かったのに、まったく不思議な現象だ。
心の安全
日本という国は確かに治安も福祉も他国に比べれば充実している。しかし大東京のジャングルでは、お互いがお互いに無関心なまま、心の安全は蔑ろにされていた。
家庭で、職場で、通勤電車でストレスを溜め込むビジネス星人たちは、今日も怒りとも苛立ちともつかない感情を必死に押し殺しながら、吊革に掴まってぷらぷら揺れている。
こうやって怒りを何とかこらえている人が大勢いる中で、たまにそれを爆発させてしまう個体がある。今日の出来事はたったそれだけのことに過ぎなかった。なのに私にそれを責める権利があるだろうか。
発散されるストレス
やっとの思いで自宅の最寄り駅に辿り着くと、バスロータリーの前に人だかりを見つけた。
待ち合わせスポットとしてはそこまでメジャーではなかったはずだ。明らかにいつもと比べて不自然に大きな群衆がたむろしている。いやよく見ると皆、何やらしきりにスマホをてしてし叩いていた。
近づいていくにつれ、彼らの目的がだんだんと明らかになってきた。皆がスマホで遊んでいたのは、ブーム冷めやらぬ『ポケモンGO』。動物に金属製のボールをぶつけて捕獲し、奴隷として同族との戦いを強いる残忍極まりないスマートフォンゲームだ。
きっと珍しい品種がこのあたりに出没したのだろう。私はさっきまでの車内の光景とこの群衆との対比に、妙に納得してしまっていた。
普段から己を管理され、義務付けられ、強制されている彼らが、電子上のポップな生物たちを収集し使役することで心の均衡を保っている。
怒りやストレスが限界を超える前に、それを他人に迷惑の掛からない方法でぶちまけている。一見すると遊んでいるさまは無邪気な子供のようでいて、その目はしっかりと社会を見据えていた。
怒りに真摯に向き合いたい
どうやら、怒りを抑えられていないのは私の方だったようだ。湧き上がる同調圧力に押し負けて、私もアプリのストアを開いてみる。
しかしはたと手が止まる。それでいいのか。
日々じわじわと募るストレスは、溜め込んで爆発するか、溜まる前にぶちまけて発散させるかしかないのだろうか。
アンガーマネジメントという言葉が脳裏をよぎった。方法はネット上でもいろいろ取り扱われていたが、やはり怒りをうまく乗りこなそうという考えであることに変わりはないらしい。
もっとこう、根本的な解決は存在しないのだろうか。
そうだ、例えば怒りを覚える相手の状況にも寄り添えるような考え方。己の怒りを怒りとして認め、でも我慢も発散もコントロールもしなくて済むような。
私の頭の片隅で時たま戒告を発してくれる、一ノ瀬はじめのような。次回は彼女とその物語について話そうと思う。
皆にも知ってほしい。万物をデザインする『NOTE』を操り、心から平和を願い悩んだ、変身ヒーローの話だ。
今日の関数:
一ノ瀬はじめを思い出す
= 0.7*怒りに向き合いたい + 0.3*ストレス社会
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