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「寄り添う」に必要なもの

ちまたでは、よく「寄り添うことが大事」とか、「最後まで寄り添う」とか、まことしやかにいわれることがあるけど、本当に「寄り添う」ことを体験した人が言ってる言葉だろうか。
などと、思うことがある。

なぜなら、寄り添うということには、非常に体力が必要なのだ。
寄り添うのに必要なのは、精神力でしょ。などと思う人もいるだろうが、これがなかなか体力が必要なのである。

もっと必要なのは忍耐力。
さっさと、片づけてしまおうなんて思う人は、自分のペースで、相手をコントロールしようとしてしまうから、状況を悪化させる。

それから自分と相手とのボーダーを保つ力。
ここはすごく難しい。
相手に引っ張られて、垣根を越えて、相手の世界に引きずり込まれてしまうことがあるから。

そういうわけで、かくいう私も毎日、寄り添うことをよぎなくされている生活をしているから、体力的にぐったりしてしまう。
だから、日が暮れるころにはくたくたになって、早く眠りたいなあと思うほどだ。

しかし、世の中には体力のない人もたくさんいる。
私よりずーっと高齢の人。
私より小柄な人。
私より、病気をしがちな人。
そしてご自身も障害がある人。

そのような方々は、どうやって寄り添っていらっしゃるのだろうか。
どうやって寄り添う力を編み出していらっしゃるのだろうか。
などと、考えてみる。

しかし、はたから見れば、今年75歳の後期高齢者になる私が、50歳の長女に寄り添っていることが、もう、「どのように寄り添う力を編み出しているのだろうか」と疑問に思われる存在なのに違いない。

これはもう、イメージとして、
私はバットマン、チベットの山奥で修行を積んだ身。などと思ったり。
私は、ミシェル・ヨー。宇宙を救うために戦ってるの。と思ったり。
レッドクリフに出てきた、子供を抱えて剣を振り回して戦う剣士だったり。

なんだか、闘うイメージばかりだな。
穏やかでないな。
寄り添う力について考えているのだけど。

そして、はっと思い当たる。
障害のある人に寄り添うのって、社会や世間に対して闘うことが、かなりあるものなのだと。
静かに横に、寄り添って座る穏やかなイメージ。
だけど、世の中のおかしいことには、断固闘うという意思を心に持ち続ける。

もしも私が、もっともっと、歳をとって、もっともっと体が動かなくなって、寝ている時間が多くなったとしても、わたしの魂は闘い続けるだろう。

つまり、寄り添うのに必要なのは、魂の力。
自分自身の言葉で語り、自分自身の頭で考え、自分自身の耳で人の声を聴くこと。自然の声を聴くこと。
流されないこと。
足を踏ん張って地面につけて、体幹に力を入れてどっしり構える。
最期の時まで、ずっと。ずっと。

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