イタリアのフルインクルーシブ教育
2022年に国連の障害者権利委員会から、日本に対して特別支援教育の廃止と、精神科の強制入院に関わる法律の廃止を求める勧告が出た。
その時はかなり話題になった。
しかし、「インクルーシブ」ということを、「日本でいうところのインクルーシブ」の視点で考えてしまうと、国連からの勧告は、とうてい無理でしょということになってしまう。
障害者の母親として、50年間生きてきた私は、
「障害のある人もひとりの人間、当然、住みたいところで暮らし、自分の主人公として生きていく。」
そして、
「健常者といわれるひとは、ひとりの人間として、自分の人生を生きると同時に、障害のある人と共に、生きていく。」
と言う考え方を持っている。
この考え方で生きていくのは、かなり風当たりが強い。
「お世話になってます。迷惑かけないように生きていきます。皆さんの親切に感謝します。」なんてわざわざ言わないで、堂々と親子で生きているからだ。
この生き方は、日本ではあまり歓迎されない。
可愛げがないし、障害があるくせに図々しいと言われることさえある。
しおらしくなく、先生方にも、自分の意見をはっきり言う母親は敬遠される。
しかし、まさにここが欧米と日本の明らかな違いとなり、インクルーシブ教育の意味に大きな違いがてくる原因であることは明らかだ。
「イタリアのフルインクルーシブ教育』についての本が出たので読んでみた。訳者は特別支援学校の現役の教師である。
イタリアでのフルインクルーシブ教育は、国中の問題として、政策の中に教育、障害を考えてきた基礎があるというところが日本との大きな違いだと思う。
欧米でも、障害者教育は隔離されてきた歴史がある。
しかし、困難を承知の上で、障害のある人が自分の主人公として、自分らしく生きることができるよう、地域の中で、みなと一緒に生きることができるよう、教育だけの分野でなくて、文化、政治の問題として、国家的な規模で考えることを始めた。
そして、今は「ペタゴジア・スペチャーレ」(日本語にでは訳すことができにくいので、この言葉をそのまま使っている)という学問分野として確立している。
「イタリアにおいて、障害児のために学校教育のインクルージョンと社会的なインクルージョンの道のりが発展してきたことをめぐる。歴史社会的、科学文化的なプロセスを明らかにしようとする試み。」
つまり、日本では、「教育の分野」でインクルーシブを考えるから、選択肢として普通校で学ぶか、特別支援校で学ぶかの二者択一になってしまうが、イタリアでは、「社会的なインクルージョン」という規模で、障害児の生き方を考えるから、幅が広い。
そして、全社会的で考えるということは、障害児と親、教師だけの問題ではなく、社会全体のひとびと、あなたもわたしも、みんなの問題としてとらえることになるのだ。
インクルージョンという言葉を使う時、気をつけなければならないのは、社会的規模であるかどうか。ひとごとではなく、自分たちのこととして、そして、国家的な政策として教育を考えるということだ。
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