『エビス・ラビリンス』試し読み(2)
「誘蛾灯」 az
心地よい仄暗さの中、時田遥(はるか)は闇を照らす焚火の音と匂いを感じ、その周りを飛ぶ蛾の群れを見つめていた。遥のそばにやって来る人々は、わずかに炎の前に佇み、すぐに離れて行く。立ち尽くす遥を不思議そうに見る人もいた。
しばらく経って、一人の男が遥の隣に立った。
「時田さん、久しぶり」
遥は男を見上げ、頷いた。松宮は微笑み、焚火から離れる。遥は彼のあとを追った。展示室の出口で振り返ると、焚火と蛾を描いた絵は、人々に囲まれて見えなくなっていた。
地下の展示室から地上へと階段をのぼる。遥は、前を行く松宮の背中を見つめた。その姿が、初夏の眩い陽光に照らされて薄れゆくのではないかと不安になって。しかし地上に着いても、彼はそこにいた。麻のジャケットと白いパンツを嫌味なく着こなしている。白髪が増え、細面の顔はより細くなり、鋭い顔立ちはさらに鋭くなっていた。
「急に連絡して悪かったね」
遥はかぶりを振る。松宮は、エントランスの脇にあるガラス張りのカフェを指差した。
「お茶して行こうか」
遥は聞き違えたのかと思い、松宮の顔を見つめた。彼が私に貴重な時間を差し出すわけがない。ここに着くまでに、余計な期待はしないことと何度も自分に言い聞かせて来た。松宮は「どうした、そんな顔して」と、柔らかに笑う。遥は、学生時代に初めて彼の研究室を訪れたことを思い出した。
「お忙しいんじゃないですか」
「夕方から打ち合わせだけど、まだ間がある」
松宮は腕時計を見ながら言うと、遥の答えを聞かずにカフェに向かった。遥がついて来ることを疑わない、自信に満ちた足取りだった。遥はしばらく抵抗するようにその場に突っ立っていたが、結局ついて行った。
二人とも、同じ煉切と抹茶を頼んだ。遥は、松宮と食べ物の好みが似ていたことを思い出した。松宮は水を一口飲み、「どうしてた?」と言った。かつて二人のあいだには何もなかったかのように。
「特に変わったことは何も。毎日働いて、普通に暮らしてます」
「そうか。それなら、よかった」
「先生はどうしてましたか」
「僕も、特にこれと言ったこともなく」
「嘘。御本のおかげで、ますます有名になられたはずです」
松宮は笑い、窓の外に目をやった。彼は社会心理学が専門の私立大学の教授で、少し前に出版した一冊の新書がベストセラーになった。それがきっかけでさまざまなマスメディアに顔を出すようになり、知的な風貌と穏やかな語り口で世間を魅了していった。彼が華やかな階段を駆けのぼるあいだ、遥はそばにいなかった。彼と共有してこなかった長い時間を思ったが、後悔はしていない。少しずつ人間らしい感情を取り戻し、身の周りに喜びを見つけられるようになったのだから。店員が煉切と抹茶を置いて行くと、松宮はゆっくりと遥に向き直った。
「あの日以来、初めてここへ?」
遥は言葉に詰まり、俯いた。初めてだと嘘をつこうとしたが、もう遅い。煉切の涼しげな青から目を離して顔を上げると、松宮の視線にぶつかった。遥の目の奥に、闇を照らす焚火が甦った。
松宮は恵比寿駅まで遥を送った。行き交う人々で辺りは賑わっている。
「それじゃあ、また」
松宮は遥の二の腕に触れ、すぐに手を離した。振り返らずに雑踏へ紛れて行く。遥は二の腕を押さえ、改札へ向かった。
(続く)