『エビス・ラビリンス』試し読み(8)
『偏見とアイスクリーム』 スイ
取引先の担当者である女性に恋心を打ち明けられた。二人きりの飲み会の帰り道、信号待ちの合間のふいうちだった。女同士で、取引先と営業という関係性だから、そういうことはないだろうと油断していた。私だったら仮に惚れていたとしても絶対に言わない。だってどう転んでも面倒ごとしか起こらない。聞いてみると彼女は仕事で出会う前に私のことを新宿二丁目で見知っていたらしい。全く記憶になかったので二重に驚いた。
「正直、恵比寿に住んでるような人と付き合える気がしません」
と言ったら、
「えっ、同性愛者なのに居住地差別するの」
と返された。まさか差別なんて強い言葉を出して非難されると思わなかった。住む場所というのは人生の中でも大切な要素である。田畑に囲まれた田舎に住むのか、高層ビルの建ち並ぶ都会に住むのかで、周囲から受ける影響は大きく異なる。だから恵比寿に好んで住んでいるような人とは価値観があいそうにないという意味だと説明したが、彼女は硬い表情を崩さなかった。
そもそも二丁目で飲んでいたからといって同性愛者とは限らない。「恵比寿に住んでる人」を一括りにする私が差別主義者なら「二丁目で飲んでる女」を同性愛者と決めつける彼女の中にも人を分類し、ラベルを貼って安心したがる心性があるはずだ。
話すうちに次第に互いの口調が強くなり、最終的に口論になった。憤慨したまま帰宅し、ふと思い出した。翌週、彼女の会社での打ち合わせがセッティングされていた。
「もうやだ。明日になってほしくない」
沈黙しか返ってこなかったので脚を伸ばして向かいのテーブルの下の脚を蹴った。石井は嫌そうな顔をしながらハイボールを呷る。
「約束、キャンセルすれば」
「そういうわけにはいかないのよ」
私はもごもごと誤魔化した。流石に同僚に創業以来の大口顧客の課長が「お仲間」だとばらすわけにもいかず、従って明日の訪問予定を体調不良と偽ってキャンセルしようかと悩んでいることも伝えられない。知り合いから急に告白されたが明日用事で会わねばならないと伝えている。
「大体なんで俺に言ってくるんだよ。友達にでも愚痴ればいいだろ」
「ちょうど誰も捕まらなかったんだからしょうがないじゃん」
ふて腐れて焼き鳥を一串まるごと口の中に収めてしまう。ビールを一気に飲み干す。石井が溜息を吐いて手を上げる。寄ってきた店員におかわりを頼む。
石井は同期の技術者だった。企業の人事向けシステムを提供する創業期の企業に新卒で入社するような人間は当時珍しく、たった二人の同期として十年間支え合いながら仕事をしてきた。一時、若気の至りで交際してみたこともあった。彼とは食の好みが合ったし、親一人子一人の家庭に育ったという境遇も同じで、一緒にいて楽だった。別れを告げたのは私からだったので、迷惑ではないかと考えたこともあるが、飲みに誘えば断らない気安さにいつも甘えてしまう。
「だいたいなんでそんなに恵比寿を毛嫌いしてるんだよ」
「恵比寿に住んでる奴も住みたい奴も、ろくなのに出会ったことないんだよ。うちの部長もそうじゃん。バブリーな価値観押しつけてきてさ……。私は堅実に生きていけるだけのお金を稼いで、こういう大衆居酒屋で飲んで、巣鴨とか大塚あたりでひっそりと生きていきたいのに」
「じゃあその人が巣鴨とか大塚に住んでたら付き合った?」
(続く)