『エビス・ラビリンス』試し読み(7)

「まぶたの裏」 篠原しのぶ

 雑踏の中…
 クリスマスが近い冬の日のこと。雅哉は久しぶりに恵比寿駅で降りた。会社のある大崎から池袋に帰る途中だった。池袋は就職を機に二十年近く住んでいる。新宿や渋谷に行くことはあっても恵比寿に行くことはこれまでほとんどなかった。
 なんとなくのイメージで敬遠していたのだろう。それが今日に限って、気づくと下車していた。

 イルミネーションに彩られた街並みは、寒さを気にしない人々のウキウキとした心をそのまま投影しているようで暖かく思える。しかし、どこか居心地の悪さだけは感じていた。楽しそうな笑い声と、ハイヒールやビジネスシューズの堅い音が響く。そこに電車の行き交う走行音や駅員のアナウンスも入り混じってくる。他人の家に勝手に上がり込んでいるかのような落ち着かない印象こそ、この街を避けていたそもそもの原因なのかもしれなかった。

 今から三十年近く前。恵比寿駅前には東京を代表するビールの工場があった。恵比寿の名の由来となった、ヱビスビールの工場である。サッポロビールの系列となったあとは、サッポロビール恵比寿工場として稼働していたらしい。しかし、1985年に工場の閉鎖が決まるとビール工場は姿を消した。変わって1994年に登場したのが、恵比寿ガーデンプレイスである。
 恵比寿ガーデンプレイスの華やかな賑わいは、恵比寿を象徴する風景だ。オシャレな街、住みたい街とテレビや雑誌、ウェブ記事でもよく紹介されている。
 人気のレストランやカフェ、雑貨店、化粧品などの美容品を扱う店がそこら中に存在する。海外資本の日本店舗もここではよく見かける。

 雅哉は、昔と随分と違った駅前の雰囲気に寂しさと懐かしさを感じていた。この駅に通っていた当時は、小学校低学年だった。その頃の恵比寿駅前には、白い噴水があったように記憶しているが今はどこにもない。そもそも駅がこんな高い位置にあったのだろうかと思いながら東口の改札を出る。階段をくだり、細い路地を抜けると幹線道路が目の前にあった。
 横断歩道の先には喫茶店があった。どこにでもある喫煙者に優しい喫茶店。有名な印象派の名を冠した店だ。
 自動ドアを入ると店員がすかさず、
「全席喫煙席ですがよろしいですか」
と声をかけてきた。
 今どき珍しい。
 もちろん、というように頷くと、空いているお席にどこでもどうぞ、と促された。
 店内の最も奥まった二人掛けの席が空いていたので腰を下ろした。両サイドにはスーツ姿のサラリーマンらしき男性が一人づつ座っていて、どちらもスポーツ新聞を読んでいた。
 メニューを持ってきた店員にブレンドコーヒー、と告げるとメニューを開くことなく、
「かしこまりました」
と戻っていった。
 そうそう、確か親父とよく通っていた当時、駅前ロータリーは見通しが良く、随分と先の建物まで見通せていたっけ、と店員の背中をぼんやりと眺めながら子供の頃を思い出していた。
(続く)


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