『エビス・ラビリンス』試し読み(16)
「ボンダンスの夜」 余花
「え? なに? よく聞こえない。今いる場所? ……なんか銅像が立ってる、恵比寿駅のロータリーのほうで、長いエレベーターが見えるところ。うるさい? だって駅前で盆踊りをやってんだよ。今、かかってるのは“We will rock you”で、みんな、普通に踊ってるよ。ていうかさっきからずっと、クイーンが流れてるんだけど、違和感ないね。盆踊り、案外、海外進出もできるんじゃないの。
そんなことより、悪いけど池袋には行けない。香野がいなくなっちゃったんだよ。スフレの店で香野の携帯が入れ替わっちゃってさ。ダイオウイカの浴衣を追っかけてここまで来たんだけど、凄い人で、香野ともはぐれちゃったんだよ……」
「スフレを食べに行こう」と、言いだしたのは香野だった。
中高一貫の男子校に通う香野と僕は、学校の試験のたびに順位をめぐって賭けをしてきた。
負けたほうが次のテストまで髪を切らないとか、学食ではいつも納豆を頼むとか、どうでもいいこと。科目は数学や英語みたいなガチの教科じゃなくて、古文(漢文が範囲なら、なお上品)や世界史くらいのちょっと趣味的な教科が望ましい。
罰ゲームは髪を切らないでいると親からの注意がうるさいので、「勝った人間がやりたいことに負けたほうがつきあう」というあたりで落ち着いた。付き合うのは野球観戦だろうが、スケートだろうが、なんでもかまわない。かかる費用は割り勘だ。最初は普通に映画なんかに行ってたんだけど、だんだん互いに調子づいてきて、「微妙に気恥ずかしく嫌な感じ」の提案をするようになった。一緒に出かけるんだから、勝った方も恥ずかしいわけで、我ながら意味がわからない。
ともあれ、高一の夏休み前の期末試験の古文(だけ)は、香野が学年ヒトケタの順位で勝って、男ふたりで、スフレを食べに行くことになったのだ。(香野は古文に全精力を集中したため、古文以外は惨憺たる結果だった)。香野のお父さんが無料チケットをもらってきて、香野にくれたのだという。香野パパは息子が女の子を誘うことを考えたのかもしれないが、真っ先に香野が誘ったのは自分で、その時点で「スフレ」が何であるのかは二人ともよくわかってなかった。
降りなれない恵比寿駅の一階改札を出ると、気温がいくぶん上がった気がする。駅前のロータリーでは、櫓を中心に提灯の飾り付けが佳境で、オシャレタウンだと思っていた恵比寿と伝統行事の取り合わせに、ちょっと驚いた。
恵比寿駅前商店街のハッピを着た女性が、「夕方からです、着てくださーい」とチラシを配っている。水色に黒い文字で「恵比寿 盆ダンス」と提灯が印刷されている。「17:00〜 スペシャル企画/「クイーン」メドレー有」とあるのは、クイーンを流して踊ろうということか。
「OLが多い駅前でも、盆踊りをやるんだなあ」
「はやってるみたいだよ。恵比寿で検索したら動画が山程出てきた。最近は池袋とか新作つくってるけど、恵比寿にも確かあるよ。もはや盆ダンスだよ、ダンス」
ふーんと香野は気のない様子で、スマホに目をやったまま答える。
「たぶん、こっち」
ロータリーとは逆、改札を右手に曲がって、裏通りから渋谷川沿いの道へと進む。
途中、巨大なタコの遊具がある公園を見つけた。タコの足が四方へうねりながら伸び、滑り台やウンテイになっていって、楽しげだ。気づいた途端、案の定、香野は滑り台になっている、タコの足の一本を駆け上がっていた。
タコの左目はつぶらで睫毛もあり、右目でウインクしている。あちこち塗装がはげかかっているのは、子どもたちが遊びまくったせいだろう。
「——ここ、子どもたちには絶対“タコ公園”って呼ばれてるよな」
両手を上にあげて滑り降りてきた香野がつぶやく。
「だな。それ以外、ありえない。ロケットの遊具があればロケット公園だ」
「タコ公園、帰りにも寄ろうぜ」
「いいよ」
香野はブランコや遊具が好きなのだ。
“タコ公園”に別れを告げ、駅前の喧騒がいくぶん遠のいたあたりに、スフレ屋「シュート・ドゥ・ネージュ・オー・プランタン」はあった。
(続く)