生まれ落ちた社会から独立した自由はあるのか?――渡辺靖『リバタリアニズム』(中公新書)
リバタリアニズムとは自由至上主義で、自由市場・最小国家・社会的寛容を特徴とする。政府による介入は少なければ少ないほど良い。規制のない市場で、人々は自由に取引をする。自由意志に基づく市場取引は、全体の「幸福」の量を増大させる。「社会的寛容」と聞いて、意外におもうかもしれないが、リバタリアンは自分の自由だけではなく他者の自由も尊重するので、例えば性差別、人種主義や国家主義(ナショナリズム)は、個人をより大きな属性で「拘束する」と考え、否定的である。
というのが原理原則なのだが、リバタリアニズムとは社会での実践であると同時に、「自由についての思想」であり、「自由とは何か?」「どこまでの自由が認められるのか?」という思考実験的な要素がある。本書で紹介されるリバタリアンたちも一枚岩ではなく、これは認めるがあれは認めない、といった差異はある。その差異(グラデーション)も含め「自由とは何か?」を考えるのがリバタリアニズムなのだろう。
リバタリアニズムは、アメリカ的である。ヨーロッパの保守主義(身分、階級)でもなく、革命を通じた社会主義(平等を目指す大きな政府)でもなく、自由の国アメリカでは、自由に至上の価値が置かれる。自由=リベラリズムであるのだが、自由の幅は広い。1930年代、「自由のための手段」としてニューディール政策が実施された。「政府の介入」が「リベラル」とされたのだ。これに対して、古典的自由主義を求めるものたちは、社会平等的なリベラリズムとは異なる自由主義=リバタリアニズムを提唱した。アメリカの保守と革新が、ヨーロッパと逆転していると指摘されるが、これはアメリカが自由主義の右派(リバタリアニズム)と左派(大きな政府による再分配)で対立しているからだ。(アメリカの共産党は存在感がない。)
リバタリアニズムへの批判もある。「完結した強靭な自己(個人主義)が前提」「普遍的ではない」「個人は虚構ではないか」「弱者切り捨て」「コスモポリタニズムまたは孤立主義」「差別、貧困などに政府が是正措置をとれるのか」など。リバタリアンによっては、「徹底的な自由市場の貫徹が答えだ」という人もいるし、「ある程度の政府の介入は許容される」という人もいるようなので、一概に「リバタリアンは~」というのも雑な議論なのだろう。
とはいえ、個人的には「市場の調整機能」に私は懐疑的だし、「自己決定ができる自由意志をもった自律した個人」というのもあまりにも抽象的・理念的な概念だと思う。マイケル・サンデル的なコミュニタリアニズムへの目くばせは必須だろう(本書にも言及はある)。そして、時に混同されるが、リバタリアニズムと功利主義も、また異なっている。功利主義は「最大の幸福のために個人の幸福は犠牲にされる」ので、リバタリアンは功利主義を認めない(はず、原理的に)。リバタリアンはアイデンティティ・ポリティクスともポピュリズムとも対立する。リバタリアンはポピュリスト政治家・トランプを批判するが、しかし、そのトランプはサイバーリバタリアンとも呼べるイーロン・マスクと親交があるので、ここにも「自由の幅」がある。
自由契約論だと、自由な個人が契約して社会を作ったという順番になるが、しかし時制的秩序(社会、共同体)がまずあって、その中で自由概念が構築されていった、と考えるのが歴史的な順序だろう。むろん、歴史的に構築された自由、人権といった概念を前提にした先にしか現代の社会や秩序はありえないと思うが、かといって「自由」だけを抽象的に取り出して全面的に押し出すのにも限界がある。
というリバタリアニズムの勉強になった。非常によい入門書。(橘玲がオススメしていたので読んだ。)
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