海老原豊

評論家。SF、ミステリ、文学。近著『ポストヒューマン宣言』(小鳥遊書房)

海老原豊

評論家。SF、ミステリ、文学。近著『ポストヒューマン宣言』(小鳥遊書房)

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    むかし書いた書評・レビューをまとめました。順次追加していきます。

  • 『ディストピアSF論――人新世のユートピアを求めて』

    新刊(単著)『ディストピアSF論――人新生のユートピアを求めて』(小鳥遊書房)の内容を紹介していきます。

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最近の記事

紙と鉛筆と本(が最強の組み合わせ)

どうやらICT教育は失敗だったらしい。 教育の設計には「学習者の注意をどこにむけるか」がある。学習者に注意を向けてやってもらいたいことを提示し、学習者はそれに取り組む。デジタルデバイスは、ユーザーにマルチタスクを促す。道具の主目的とは、その道具を80%の人が 80%の時間、使うこと(例:トンカチなら釘を打ち付ける。)デジタルデバイスは主目的が絞れず、結果、マルチタスクになる。マルチタスクは脳にとって良くない。①エネルギーを消費する、②正確さが欠ける、③記憶に定着しにくい。マ

    • wantが高じるとlikeは嫌いになるーーゲーリー・ウィルソン『インターネットポルノ中毒』(DUブックス)

      ※本書の「中毒」とはaddiction「依存」のことである。 インターネット(オンライン)のポルノは高速・多様・ほぼ無限にあり、長期間にわたってオンラインポルノを視聴すると、脳に物質的な影響を及ぼす。脳の神経には可塑性があって、すなわち体験が脳に(限定的とはいえ)影響を与え、神経の結びつきを強めたり弱めたりすることが明らかになっている。オンラインポルノ依存状態になると、「習慣化」「性的反応の低下」「極端な視覚刺激の必要性」「配線されたフェティッシュ」が起こる。性的関心と性的

      • 1994年のヒットソング

        大学の時の友達と飲み会に行ってきた。私をいれて4人。飲み会だったが、私は酒は飲まなかった。開始直後はアメリカ大統領選やらなんやらマジメな話もしていたが、後半になってくるとそれなりに酔っ払い話になる。かれこれ20年ぐらいの付き合いで、といっても最近では年1〜2回会うぐらいなのだが、会えば学生時代のように話せるのだから、友人というのは不思議である。 2時間ほど酒を飲み、店を出て、さて2軒目。居酒屋ではなくコーヒーでも飲もうかと思ったが、店はいっぱいで入れなかったので、カラオケに

        • 物質なき世界に身体も共同体もないーー戸谷洋志『メタバースの哲学』(講談社)

          あいかわらずとてもわかりやすく、難しい事象を哲学的に腑分けしている。 ざっくり仮想空間と定義されるメタバースは空間的な没入性を特徴とし、物理空間からの離脱が可能に思える。が、身体やジェンダーなどを観察していくと、どうも見られるのは現実の規範からの逸脱ではなく再生産(強化)であり、ジジェク的に言えば、抑圧された自己の代わりのものがアバターなのだ。 私たちはそもそも物理空間において、自分の身体や言語による構造化を通じて、世界を知覚している。リアリティは自分の身体は通過している

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        記事

          文庫本がバラバラになる問題

          むかしに読んだ本を再読している。一度読んで終わり、ということも多かったが、最近は、読んだ本の内容を覚えていない(思い出せない)ことも多く、その場合は読み直している。 高校生から大学生の頃に買った文庫本を読み直す。だいたい20〜25年くらい前の本だ。そうすると、本全体が傷んでいるためか、ぐっと本を開いた瞬間にピリリリという不穏な音とともにページがハラリと落ちてくる。本の背中(?)らへんが傷み、ノリが弱って、ページがはがれてしまうのだ。出版社によって頑丈な文庫本もあるのかもしれ

          文庫本がバラバラになる問題

          「弱い責任」は弱い他者への責任――戸谷洋志『生きることは頼ること』講談社現代新書

          とても大切なことを、とてもわかりやすく丁寧に書いている。良い本である。 サブタイトルは「「自己責任」から「弱い責任」へ」とある。キーワードは「弱い責任」だ。私たちが責任と聞いて連想する、「自律した一人の個人が自己決定し、その結果を自分で引き受けること」を戸谷は「強い責任」とする。強い責任は、近代的・理性的・啓蒙主義的な人間像に結びつく。強い責任は、サッチャーの「社会なんていうものは存在しない」、日本における自由市場開放の原理、さらにはイラク戦争の人質事件での「自己責任論」な

          「弱い責任」は弱い他者への責任――戸谷洋志『生きることは頼ること』講談社現代新書

          逆差別は成立しない――森川美生・大森一輝『「もう差別なんてない」と思っているあなたへ』(小鳥遊書房)

          もう差別なんてない、のだろうか? それは単に見えていないだけではないか? と本書は問う。差別とは構造的な問題で、構造が温存されている限り、たとえ個人個人が差別行為をしていなくても、制度への「加担」はしていることになる。「なんでもよい」「誰でもよい」「好きにやればよい」と言いながら、新しい提案を否定し旧来のやり方を踏襲するのは、現状維持=制度の温存をしたほうが都合が良い人がいるから。筆者は差別の構造を山に例える。上から下を見るのと、下から上を見るのとは景色が違う。「こうしてほし

          逆差別は成立しない――森川美生・大森一輝『「もう差別なんてない」と思っているあなたへ』(小鳥遊書房)

          そのやる気はどこから来て、どこへ行くのか

          やる気(動機づけ)には外発的なものと、内発的なものがある。という話は有名である。内発的動機の場合、行為それ自体を楽しむためにすることで、報酬はその行為自体であるのに対し、外発的動機だと、行為はあくまで手段であり、報酬が得られるのはあとだ。「お金がもらえる」「人に褒められる」「仕事で成功する」「良い大学に入る」「本が売れる」なんてものは、いずれも外発的動機づけだろう。この動画によると、それぞれの特徴は以下にまとめられる。 ・内発的動機だと、外発的動機よりも、長期にわたって取り

          そのやる気はどこから来て、どこへ行くのか

          テレビ時代のリアリティとは?ーー筒井康隆『48億の妄想』(文春文庫)

          筒井康隆のデビュー長編。1965年の作品。テレビ時代に突入した私たちがリアリティを変容させた/させていく様子を、時にバカバカしく時にグロテスクに、とにかく執拗に描き出す。特徴的なのは「アイ(カメラアイ)」という小型カメラが全国に配置され、政治家や有名人、事件・事故が即座に中継されるようになったこと。これにより、人々はカメラアイを意識した振る舞いをするようになる。たまにカメラ目線になり、リアリティがないとテレビ局員に判断され、カメラが切り替わることもある。一方、事件・事故の再現

          テレビ時代のリアリティとは?ーー筒井康隆『48億の妄想』(文春文庫)

          個人の利益はすなわち国家の利益ーーユーリ・ツェー『メトーデ 健康監視国家』(河出書房新社)

          メトーデとは「方法」のこと(英語のmethod)。国民の幸福が国家の幸福と一致し、いっさいのズレを許容できない健康監視国家・メトーデ。国民は、消費エネルギーから食べ物まで管理され、検体を提出することで、身体の健康状態は常時監視(=報告)される。人は自分の健康を保つ義務があり、親であれば自分に加えて子供を健康に保つ義務もある。もしこの義務を怠るようであれば、国家から裁判所を通じて警告が出され、それでも従わない場合は刑罰がまっている。自らを「手段」と規定しておきながら(ゆえに?)

          個人の利益はすなわち国家の利益ーーユーリ・ツェー『メトーデ 健康監視国家』(河出書房新社)

          学習とは「学習の中断」であるーー神代健彦『「生存競争」教育への反抗』(集英社新書)

          社会の生存ユニットとしての家庭や、学校卒業後に子供が参入する社会が、学校教育に期待するものが、あまりに過大ではないだろうか。と、問いかけることから筆者は語り始める。現代日本(世界)の先行きが不透明で、不透明であるからこそ、要求されるものがますます抽象化・高度化している。「コミュニケーション力」やら「問題解決能力」やら、「○○力」に期待されるものは、ほとんど超能力のレベルであると、筆者は述べる。確かに、人類の叡智が解決できない問題を解決できる人材を学校内外の教育で育てることがで

          学習とは「学習の中断」であるーー神代健彦『「生存競争」教育への反抗』(集英社新書)

          個人の「能力」ではないーー勅使川原真衣『働くということ』(集英社新書)

          サブタイトルは「「能力主義」を超えて」である。大学院で教育社会学を学び、その後、外資系コンサルを経て、組織開発を専門とする会社を起業した筆者が、「能力主義」の問題点を教育社会学の知見を使い批判的に検討しつつ、「能力」を基準にした選別をしないのであれば、人はどうやっ働けば良いのか、を筆者の組織開発(仕事)の事例を通して見ていく。筆者の理論と経験が、具体的な話(本書では、登場人物たちが会話をするシーンも描かれる)で、組織(職場など)で実践されていく。理論だけだと「確かにそうだけど

          個人の「能力」ではないーー勅使川原真衣『働くということ』(集英社新書)

          資本主義の外部に行くには、自転車に乗るのが良い

          資本主義の外部に行くには、自転車に乗るのが良い。もちろんスマホは置いて、なんとなくの勘で進んでいくのだ。そう、スマホを買い与えられる前の小学生たちが、友達同士で放課後に集まって自転車にまたがり、行くともなしにどこかへ向かってただこぐように。私が小学生だった頃、すなわち1990年代初頭、スマホはもちろん地図もなかった子供である私には、街はとても大きいものだった。時に意外な発見と、時に不気味な発見が、街に交互に埋め込まれていた。 私は小学生の頃、スイミングスクールに通っていた。

          資本主義の外部に行くには、自転車に乗るのが良い

          インターネットの「外」

          図書館が好きだ。週に1回は足を運ぶ。借りた本を返しに行けば、しぜん、また本を借りるわけで、そうするとまた行く理由ができる。図書館にいってもそこまで長居をするわけではなく、ぶらぶらと1時間、書棚のあいだを歩いたり、手に取った本をソファに座って読んだりして、時間をつぶす。 図書館の良いところは、本がたくさんあるところだが(もちろん)、インターネットにつながっていないことではないか、と思う。たくさんの本が図書館にあるが、図書館には図書館にある本しかない。探しているものが必ず見つか

          インターネットの「外」

          紀伊國屋トークイベント 1人反省会(後半)

          おかげさまで満員御礼の紀伊國屋トークイベント。来場された方、本を買っていただいた方、準備をしてくださった方、ありがとうございました。 イベントで話題になったこと、会場からの質問を私の視点で振り返り、言葉を繋げてみたい。(あくまで私視点である) ④労働と消費の一体化私が「労働解放ディストピア」で指摘したのは、人間がロボットや人工知能を作って労働を解放した世界が誕生しても、そこは思っていたようなユートピアではない、ということだ。いくつかの作品を取り上げたのだが、いずれも労働とセ

          紀伊國屋トークイベント 1人反省会(後半)

          20年後に「負け犬」の声を聞く――酒井順子『負け犬の遠吠え』(講談社)

          筆者は、30代・未婚・子供がいない女性のことを「負け犬」と定義する。むろん筆者も「負け犬」にカテゴライズされる。勝ち負けとは何かといえば、「女性としての生き方」の勝ち負けである。カッコ付で書いた「女性としての生き方」は多様になりつつあるが、裏を返せば本筋は一本、結婚―出産―子育ての線が(どんなに薄くなろうとも)通っている。ことあるごとに意識的・無意識的な勝ち―負けのマウンティングにさらされる筆者ふくむ「負け犬」は、だったら最初から負けをみとめて、お腹をごろんと仰向けにひっくり

          20年後に「負け犬」の声を聞く――酒井順子『負け犬の遠吠え』(講談社)