読書体験を得た。〜空の怪物アグイー感想付き〜
ひょんなことから友人に連絡をした。その友人とは10年前に 交流があったと言うか、友達の友達のような、どこかですれ違う顔見知りみたいなそういう関係。私は彼のことをよく知らなかった。仲が良い悪いでは表現にならないほどに接点がなかったのだ。それでもなんとなく、ふと思い出して連絡をした。10年越しの彼はとっても面白かった。瞬時に「この人は、私が求める層を知っている人だ。」と感じ取り、ぐぐいぐい、と本を薦めてもらった。大江健三郎の「大江健三郎自選短篇」だ。嗅覚で本能的に行動し、即日に購入。先週に「死者の奢り」、今日「空の怪物アグイー」という短編小説を読み終えた。
読書は苦手だと思っていたが、ただの食わず嫌いで実は私は本を読むのが好きなのかもしれない、と思うくらい楽しく読めた。文字を読み文章で受け取って脳で世界を構築する。体もなんとなくその世界に包まれている感覚でとても居心地が良かった。ストレス無くさらさらと進むその体験には物語に抱きしめられているような安心感があった。逆にその時間に人に声をかけられると、ものすごいノイズに感じた。みえる世界への霞み。そして完全に思考を止められると、魔法が切れたみたいにしゅっと何もかもが消えて現実に引き戻される。途端心細くもなった。以前友人(本を薦めてくれた者とは別)が言っていた「物語を読むことは安心の場だった」を私は読書に思い入れがない為に、自分の映画や音楽を聴くなどで没頭する体験と重ねて頷いていた。でもそうじゃなかった。読書の時間には、それらと全く違う私をホールドする世界が存在していた。
大江健三郎の2作品はどちらも暗い話だった。「人が狂って死ぬ映画がすきだ。」という私に、友人は「もしかしたらハマるかも。」と言ってくれていたがまさにだった。私の好きなものや大切にしたいものがあった。映画と同じようにあっという間の時間。ただ映画鑑賞と読書は全く別のものだった。映画は画面にたくさんの物が映る。主人公や登場人物、それぞれの表情や動き。主人公の視線ひとつとっても心境が伺える。そしてそこにカメラワークや音楽、セリフ。ここで製作側が何を観せたいのかも伝わってくる。もちろんそれらは鑑賞側が勝手に構築するメッセージでそこに正解はない。ただ、文字で構築される世界より圧倒的に情報が多い。正直、飽和してしまう。それが読書は、じっくりじっくりその暗さの輪郭を指先でなぞっていく。そして大きくは語り部の視点でストーリーが動くので自分のポジションがシンプルだった。おそらく私はこの部分に小説特有のホールドを感じていると思う。自分が楽しめる新しい世界の扉が開いたような気がして、とても嬉しくなっている。出会いに感謝〜。
ここからはネタバレ。
「空の怪物アグイー」
ここからは小説単体の感想なので、文章ではないです。
正体が掴めない何かに少しずつ迫っている様子がとても面白かった。そしてその“正体の掴めない何か”も少しずつずれていた。例えばある時は音楽家D、ある時はアグイー、など。若い主人公が人の感情などに揺さぶられていること、自分の未熟さに翻弄されていることがよくわかる。
私は時代背景を知らないのだけど、音楽家にとって赤ん坊はそもそも邪魔だったのではと思っている。女優の話がどこまで本当か、音楽家が女優に向けて言った言葉がどこまで本当かはわからない。それでも繊細な音楽家がその性質と重なる女性と出会ったのなら確かに結婚したい・一緒に生きたいと思う、気がする。そして、ただ赤ん坊が生まれるだけでなく、しかも植物人間になるかもしれない。そこで彼は現実をなんとかしようとしたのだろう。確実にそうする為、母親が目覚める前に独断で。そして自分の選択が緩やかになるようしばらく砂糖水を与えることで。
赤ん坊は死ぬことで、本来の未来を表明する。音楽家は「なんとかした現実」をどうすることもできなくなり、現実から逃げ出してしまう。自己都合で殺した我が子と今更対面する。という状況下でなお、赤ん坊が「アグイー」と一度鳴いたからとそう呼ぶ。私はこれが本当に気に入らない。絶対に許さない。記号的呼び方。鳴いたその音を名づけたその行為は、本当に子供との向き合いがない。現実逃避の経緯すらそこには自己都合が溢れてる。
様々出来事を経て、音楽家は死ぬ。主人公は「僕を自殺の為に雇ったのか」と問い、音楽家は応える代わりに微笑する。
多分、そうなのだろう。音楽家は自殺の準備の為に主人公を雇ったのだと思う。ただ私はその時、音楽家にはアグイーもいたのだと思う。幻覚なのかは幽霊なのかはわからないけれど、目の前に現れた自分の子供に、精一杯の仮初めの慈しみを持って「アグイー」と名付けたのだと思う。赤ん坊と自分の中の唯一の思い出から。そして赤ん坊に現世の色々なことを教え、自分の片付けをして死ぬつもりだったのだと思う。
それが途中から、音楽家特有の停止した時間の中で、アグイーは音楽家にとって生きていることになったのではないかなあ。事故にあったあの時、音楽家はやっと自己自業から脱することができて、アグイーという怪物ではなく、我が子として守ろうとしたのだと思う。最後の音楽家の微笑は「そうだった。」という自身への気づきの表情のように思える。あの瞬間に、音楽家は改めて自分に出会ったのだろう。もしくは、アグイーが主人公の隣にいることで安心したのか、両方か。
主人公の元に最後に現れたアグイー。それはずっと彼の元にいたのかな、と思う。よかったね、彼にそこにいることに気づいてもらえて。信じてもらえて。