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勉強の時間 人類史まとめ2

『サピエンス』 ユヴァル・ノア・ハラリつづき


進化の行き着く先は
ディストピア?

ユヴァル・ノア・ハラリはこうした人類の進化についてこれでもかこれでもかと語っていきながら、その進化が原始時代と変わらず、地球上のいろんな生命を絶滅に追い込んだり、生命科学で改造したり等々、残酷な支配を強化することにつながっていること、経済発展も地球環境の破壊や、極端な富裕層と貧困層の分断を生んでいることなど、進化のネガティブな面をジワジワと提示していきます。

そして進化の行き着く先には、科学と経済の仕組みを活用して莫大な富を手にした一握りの超富裕層が、神々のようなパワーを手にする一方、それ以外の大多数はテクノロジーの進化によって仕事を失い、生活保護を受けて生きるクズのような存在になってしまう、ディストピアが待っていると警告します。

『サピエンス』の続編である『ホモ・デウス』は、いわば人類史の未来編で、このディストピアの有様がさらにこれでもかこれでもかと語られています。

『サピエンス』が世界的な大ベストセラーになったのは、このディストピアにリアリティー、説得力があるからでしょう。多くの人が今の人類と世界に、大なり小なりこういうネガティブなものを見ていて、危機感や不安を感じているのだと思います。

『サピエンス』『ホモ・デウス』の特色は容赦のなさ、こうした世界を作り出してしまった人類の本質を根底から断罪しようとする姿勢にあります。

多くの本が戦争とか環境破壊とか経済格差といった問題、現象について語るのに対して、ユヴァル・ノア・ハラリは問題の根源が、人類の本質的な特性である知性や進化・拡張しようとする性向自体にあることを暴露します。人類や世界がこうなったのも、すべて人類そのものの本質からきていることなんだというわけです。

認知革命によって架空の物語とテクノロジーを活用するようになった人類が、他の生物を支配することで地球の支配者になり、自分たちを架空の物語とテクノロジーで制御しながら経済的繁栄を生みだし、自分たちが架空の物語とテクノロジーの家畜になってしまった人類のあり方の正体を徹底的に暴露する論調は、なんだか学問的というより宗教的、旧約聖書に出てくるユダヤの預言者を思わせます。

預言者とは未来を予言する予言者ではなく、神の言葉を預かって国王などの指導者たちに伝える人たちのことです。


神として咎める
人類の罪

そういえば、人類が飛躍する最初のきっかけが認知革命、コグニティブ革命だったという、大胆で刺激的な視点は、旧約聖書に出てくるアダムとイヴが食べた知恵のりんご、原罪といったことにも通じているという気がします。人間の罪を容赦なく暴いて執拗に断罪する口調は、旧約聖書の『エレミア書』に出てくる神、ヤハウェのとがめを思わせます。

ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス』の中で、ヨーロッパの中世から近代への移行期に、神の権威が低下して、人間中心主義の考え方、ヒューマニズムが主流になっていったことについて語りながら、ヒューマニズムをそれほど正しいものではなく、人間を神の代わりに存在の頂点に置き、自分たちが最高だとする、いわば傲慢な考え方だと言っています。

ヒューマニズムというと、古い宗教や王侯貴族が支配する古代・中世の価値観に対して、人間そのものを重視するポジティブで進歩的な考え方というイメージがありますが、ユヴァル・ノア・ハラリはそういう「近代的」な考え方に対しても否定的です。

そもそも地球の環境や他の生物を征服・支配するようになった人類の進化自体が、問題の根源なわけですから、自分たちを正しいとする考え方も傲慢で独善的であるということになるんでしょう。

そこに彼の考え方の斬新さ、説得力もあるわけですが、そうやって人間の根本を否定してしまうと、「そうやって否定するあなたは何なの?」という疑問が生まれます。

神の権威も人間の正当性も否定して、人間に何か禁じたり命令したりできるとしたら、ユヴァル・ノア・ハラリの言葉の根拠は一体何なんでしょうか?

ありえるとしたら、これまでの神を否定した先に出現する、新しいタイプの神でではないでしょうか。

さっきも言ったように、彼の語り口が科学的でありながら、どこか旧約聖書の神=ヤハウェの言葉を思わせるのはそのせいなのかもしれません。

『エレミア書』でヤハウェは、執拗にユダヤ・イスラエルの民が戒律に背いていること、特に自分以外の神を崇めていることを責め続けます。

おっかないという以上に、ユダヤ民族が自分以外の神を崇めていることに対する嫉妬みたいなものが感じられて、その嫉妬深さに幻滅してしまいそうなくらいの剣幕です。

エレミアという預言者が現れて、神からのこの預言を語るようになったのは、ちょうどユダ王国が、新バビロニアに滅ぼされて、多くの国民が移住を余儀なくされる、いわゆるバビロン捕囚という民族の危機が起きる直前のことです。

このバビロン捕囚前後の出来事は、ユダヤ民族が人類の歴史ではじめて一神教と真剣に向き合うようになり、おおらかで現世利益的な古代の多神教から脱して、絶対的な真理とか真実といったものがあることに気づき、真理を探究するようになる、一大転機につながっていくので、なかなか興味深いんですが、ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス』などの本を通じて発している警告が、どこか『エレミア書』に出てくる容赦ない神のとがめ、叱責を思わせるのも、彼が今の時代を人類の一大転換期と捉えているからなんでしょう。

『サピエンス』『ホモ・デウス』を読むかぎり、ユヴァル・ノア・ハラリは神や宗教を、原始時代の神話や近代の株式会社など、観念的な約束事の一種だと考えているようなので、彼自身はヤハウェを信仰するユダヤ教徒ではないと思われますが、それでも彼がイスラエルに暮らすエルサレムの大学教授だというのは偶然ではないのかもしれません。

その考え方には、西ヨーロッパのキリスト教徒が科学と政治と経済のシステムを進化させて世界を支配するようになった歴史や、その結果として今の人類を縛っている色々な思い込みに対する断罪、告発が込められているように思われます。

そういう視点や発想は、欧米ではなく中東、イスラエルのような場所に暮らす思想家だからこそ得られたものなのかもしれません。

だから彼の本にはユダヤ教の教えやユダヤ人の考え方が隠されていて、言ってることと矛盾しているとか、だめだと言いたいわけではありません。むしろそこがこの本の面白いところだし、人類や世界の課題を考えていくためのヒント、突破口がそこにはありそうな気がします。

つまり、今の人類や世界の課題は、合理的に考えているだけでは突破できないということです。


合理的な仕組みには

欠陥がある?

たとえば環境破壊とか異常気象とか、社会や国家、地域間の格差・対立といったことを解決する手段として、国連系の国際機関が主導する環境関連の国際会議や、SDGs的な取り組みが進められています。

それはそれなりに効果があるのかもしれませんが、結局、環境を破壊したり、格差を生み出したりしてきた経済や社会、政治の仕組み自体を変えずに、その仕組みの構成員である国家や企業、消費者ができる範囲で努力しようという取り組みであるかぎり、そこには限界や根本的な矛盾があるんじゃないかという気がします。

18世紀からの世界の進化、科学と経済の時代である近代の歴史が、二度の世界大戦や東西冷戦、ベトナム戦争や中東の戦争、テロの蔓延など、新しい社会の闘争やこれまでにない規模の戦争、殺戮を生みながら進んできたことを考えると、たぶん理性的、合理的な考え方による取り組みには、我々が気づいていないような深いところに欠陥があるんでしょう。

しかも、たちが悪いことに、理性的・合理的な考え方は、理性で合理的に考える私たちの知性にとって、どう検証しても正しいと判定されるので、その欠陥を暴いて、そこから生まれてくる問題を解決することができないというようにも見えます。

そもそも、近代以降の人間は、合理性を正しいと信じてしまっているので、近代の言葉や論理で定義したり考えたりするかぎり、理性的・合理的な考え方の欠陥を浮き彫りにできないということなのかもしれません。

これはとても難しい問題につながっていて、「結論はこれ!」と単純に割り切って考えることはできないので、これから追々機会を見つけて、いろんな角度から勉強していこうと思います。



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