三千世界への旅 魔術/創造/変革50 非理性を排除しない哲学の系譜
理性を乗り越える哲学の系譜
もちろん理性によって構築された理論やシステムだけではどうしても割り切れないものがあるということを言ったのはニーチェが最初ではありません。
スロベニアの哲学者・映画評論家であるスラヴォイ・ジジェクの『仮想化しきれない残余』によると、18世紀の終わりに近代的なドイツ哲学の体系を構築したカントに続いて、次の世代のシェリングは理性や合理性で割り切れないものを扱うために、非理性的な考え方を色々な角度から検証し、そこから生まれる矛盾に直面しながら、その矛盾が重要な意味を秘めていることを明らかにしました。
ヘーゲルは彼流の弁証法で、カントが精緻に構築した理論的な体系を乗り越える方法を提案しました。
ヘーゲルの弁証法は、自分の試みによって矛盾にぶつかり続けたシェリングの方法が失敗と受け止められたのと違って、一応いろんな問題を論理的に破綻なく説明し切っているので、哲学の革命みたいに評価され、多くの人に影響を与えました。
しかし、彼の論理は一種の力技でした。その論理を理解し、賛同した人をそれまでの考え方の否定、今支配的な考え方の破壊へと駆り立てる考え方だったと言ってもいいでしょう。
それは古代ギリシャでソクラテスの弁証法が、ソフィストたちの説がいい加減だったことが暴露するのを見て、若者たちがそれを真似してソフィストたちを論破しだし、世の中を不安と混乱に陥れたときのことを連想させます。
よく言えばヘーゲルの弁証法は、理性的なものを理論的に乗り越えることを可能にしたとも言えますが、それをソクラテスの模倣者たちのように、論破のための論破術として使い出すと、単なる破壊しか生まないネガティブなものになってしまう危うさを秘めていました。
主観的でもいいんだという考え方
19世紀前半にはデンマークのキェルケゴールが、論理の体系を構築するのではなく、人間の感じ方とか不安とか迷い方などについて素直に語ることで、「実存主義」の先駆的な見方・考え方を提案しました。
実存主義というのは簡単に言うと、科学的・理性的・合理的な見方や考え方によって客観的事実・真理とされるものとは別に、人間の主観がとらえる世界の物事も人間にとって意味のある「現象」であり、そうした現象と向き合って生きる人間を、客観的な存在とは区別して、「実存」としてとらえようという考え方です。
そういう考え方をすることで、科学や合理性によって束縛され、支配されがちな人間が、もっと主体的に、自由に考え、生きることができるのではないかということで、この実存主義はヨーロッパの知識人のあいだに広まりました。
19世紀後半のニーチェや20世紀半ばまで生きたハイデガーなども、この実存主義の部類に入る思想家・哲学者とされています。
意外と不可思議なカント
シェリングやヘーゲルよりも前、18世紀末に理性的な考え方を理論的に構築したとされるカントも、たとえば『純粋理性批判』を読んでみると、空間と時間の設定とか、超越論的な乗り越えとか、けっこう変なことを理論の体系に組み込んでいます。
たとえば人間の理性にとって時間は、空間にあるものと同様、長さを測定することができますが、そうなると時間は観念の中の二次元空間になってしまいます。しかし、人間にとっての時間、物事を認識したり感じたりするときの時間は、そういう固定した量を持つものではなく、空間にあると認知したものを、生きたものとしていろんな在り方でとらえることを可能にします。
先走って言えば、先ほどニーチェのところで触れた、アポロン的ものが空間的に存在するのに対して、時間にはディオニュソス的なものが作用すると言っていいでしょう。
こうした空間・時間がどんなもので、人間の意識にどう作用するのか、それを認識するとき、人間の意識に何が起きるのかを解明しようとしたのが、20世紀の実存主義哲学者ハイデガーの『存在と時間』でした。
その意味で、ハイデガーはカントが構築した人間の理性のあり方の体系で、十分説明・解明されていなかった部分を補完したとも言えますし、ニーチェに続いて、カント的でアポロン的な考え方の体系に、ディオニュソス的に動くものをぶつけたとも言えるんじゃないかというのが僕の理解です。
カントの大きさと謙虚さ
ただ、カントのことを『帝国』でマイケル・ハートとアントニオ・ネグリが「ロマン主義者」と言っているように、彼には単なる観念の大伽藍を構築したというだけで片付けられないものがあるようです。
彼の難解さは、彼が提示しているものが理屈だけですべて語られ、完結していると考えるから難しく見えるだけで、実は理論で語り尽くせないものを理論の体系から外に出して、未来へ繰り延べているのかもしれません。
そう考えると、彼の誠実さとか、謙虚さ、未来の可能性への肯定的な期待・信頼が理解できるような気がします。
柄谷行人は『トランスクリティーク』の中で、これまでカントにぶつけられてきた批判にひとつひとつ反論し、カントの基本的な正しさを証明しようとしています。間違っているのはカント本人ではなく、カントの一面だけしかとらえないまま、観念の構築物をひたすら増築した新カント派であるということのようです。
マルクス・ガブリエルも『世界はなぜ存在しないのか』で、新カント派の構築主義が、まるで観念しか存在しないかのように物事を考える方向へエスカレートしたために、物事そのものを扱う科学に敗北してしまったことを批判しています。
こうした新カント派に対してカント自身は、観念の構築よりもっと大きな枠組みで物事を考えていた人のように思えます。
彼はただ、人間が現実に存在するものを直接認識して扱うことができないことを謙虚に認め、彼の言う「理性」に現実が作用してから、意識の世界に起きることを冷静に、誠実に扱っただけです。
なぜそういう冷静さや誠実さを保ったかというと、そうしないとデカルトのように、人間が思ったことによって人間が存在するという傲慢な思い込みが生まれ、人間の意識を物事の存在より上に位置付けてしまうからです。
こういう人間の意識を物事の存在より上に置く考え方を、哲学のカテゴリー的には形而上学と言います。
デカルトとカントの違い
僕は学生時代にデカルトの『方法序説』を読んだとき、一種の解放感、爽快さを感じましたが、17世紀という近代の始まりの時代にデカルトの考え方に触れた人たちも、人間が神の呪縛から解放され、現実をありのままに見て、自由に考え、行動していいんだという一種の解放感・爽快感を感じたでしょう。そこにデカルトの魔術、科学や経済の時代、理性や合理性の時代の魔術があります。
デカルトの考え方はこうした魔術を隠し持ちながら、近代の科学や経済や社会の発展の基本的な考え方になったと言えるかもしれません。
それがなぜ問題かと言うと、形而上の人間の意識が、形而下つまり存在する物事を支配し、変えていいということになり、以前紹介したように、近代以降の人間による支配や自然破壊を正当化することにつながったからです。
ヘーゲルの弁証法も、近代の革命的な変化や進化のとらえ方を理論的に解明した方法、カントの固定的な考え方の体系の限界を突破できる方法として評価されましたが、マルクス・ガブリエルによると、人間の意識・考え方によって現実を変えられるとするわけですから、哲学のカテゴリー的には、人間の意識を現実に存在する事物の上に置く形而上学です。
ヘーゲルの『精神現象学』がカントの『理性批判』よりも読んで痛快な反面、ヘーゲルが政治では強権的な支配を支持するようになったのはそのためかもしれません。
それに対してカントが水平的、平和的、民主的な考え方を支持したのは、人間の意識の特権的な位置を認めなかった彼の哲学とつながっているのではないかと僕は考えています。
この200年の間に、カントはもう古いと考えたり、あまりにも固定的で、近代・現代の変化をとらえることができないと考えたりする人も出てきましたが、それでも何かを根本から考えようとすると、近現代の考え方の基礎的な体系として立ち返らざるをえない大きさがカントにはあるような気がします。