いつの間にか「働き方改革」を受動的に進めていないか?
文部科学省の「働き方改革」公式プロモーション動画がある。
改めて働き方改革の意義を考えさせられる動画である。
働き方改革の取組は、先生方の業務負担軽減がクローズアップされがちであるが、要は教師しかできないことに力を注ぐことができる環境をつくり出し、質の高い教育活動を行うことがねらいである。
質の高い教育活動を実施するためには、まず、先生方の心身の健康維持と人間性を高める時間を確保することが大切である。恒常的な長時間労働は、この2つを阻害するものである。
プロモーション動画の中で、学校関係者に問われていることがある。
①「これからも長時間勤務を継続することを望むのか?」 それとも ➁「心身ともに健康でその専門性を十二分に発揮して、質の高い授業や教育活動を担っていくことを望むのか?」
この問いを聞いてどう思われるだろうか。
「それは、もちろん➁に決まっている。しかし、そのような状況にならないじゃないか。そもそも、校長が、教育委員会が、文科省が・・・」という声が聞こえてきそうである。
確かに学校独自の働き方改革だけでは限界があるだろう。 予算や人事等に関しては、教育委員会や国の支援等が必要になってくる。 学校・行政・地域等で一体となって働き方改革を推進しないと、教育界の働き方改革は進まない。
しかし、ここで学校に身を置く立場して、再度考えてみたいことがある。
「自分たちは、痛みを伴った働き方改革を行っているか?」 ということである。
何かに取り組む場合は、何かを捨てなければならないことが多い。 もしかしたら、取組内容によっては、はじめは多くの時間がかかり、業務負担が軽減するまで、一時的に仕事の量が増えるかもしれない。
つまり、働き方改革を推進するためには、はじめ、多少の程度はあれ、一定の痛みや犠牲、深い思考が必要なのである。
このシステムをつくったら、この取組をなくしたら、業務負担は軽減し、教師しかできないことに集中できる。 しかし、提案するのが、考えるのが面倒くさい、そんな時間はない、今のままでもいい、思考停止のまま、取り組んでも時間をかければ、何とかなるなどいう思いはないだろうか。 私も含め誰にでもあるかもしれない。
しかし、それでは、これ以上の働き方改革を推進はすることはできなくなる。何事も軌道に乗るまで、犠牲や苦労があり、時間もかかるのである。
先生方が「誰かがやってくれるだろう」と無意識に受け身になってしまっては、働き方改革はできない。少し大げさだが、皆さんがそれぞれ立場で、痛み等を伴った働き方改革をしなければならないのである。
先日、中規模学校に研修で訪問した。 その学校の先生方のほとんどは、週3回、定時退庁されているという。
話を聞く中で頻繁に出てきた言葉は、「ノーペイン・ノーゲイン」
自分の学校を振り返るいい機会をいただいた。