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性に対するネガティブなメンタルブロックについて考える
前回、アダルトチルドレンとして、以下の記事を書きました。
(読んでくださった方、スキをつけてくださった方に感謝申し上げます🥰)
ただちょっと書き足りないことがあったので、今回はさらにふみこんで、“性別違和”と“性のネガティブなメンタルブロック”の観点から記事を書きます。
ここ最近の体調不良で、改めて自分の身体についていろいろと考えたり調べたりすることが多く、
その中で、ネガティブな性のメンタルブロックに向き合う必要に迫られています。
今回は、そんな自分に対して処方箋を出すつもりで書きます。(毎回そんな感じではありますが)
私は過去に、以下の記事を投稿しました。
この記事の投稿から一年以上経って思うのは、誰もがうっすら性別違和を抱えているのではないかということです。
それはあなたの主観でしょ?
自分は自分の性別に特に不満も違和感もないけど…
という方もいるかもしれませんが、見方によっては、性別は“急にやってきて持たされる”という点で、とても暴力的と言えます。
特に思春期になるとそれはいきなりやってきて、あなたは女性ね、あなたは男性ねといった具合で、身体の変化を通して私たちは自分たちの性別を引き受けなくてはいけません。
女性でいうと、知らず知らずのうちに毎月お腹を殴られる刑に処されると表現することもできます。
女性であるというだけで、嫌な目に合うこともあります。
この“急にやってきて持たされる”性別によって、私たちは一定の年齢に達すると自分らしさを奪われ、強制的に性的な属性に押し込まれます。
そして次第に、社会の中にある見えないドレスコードからくる生きづらさに悩まされるようになります。
私は以前、“可愛いの定義は人それぞれでいい”という記事を書きました。(思った以上に反響があり、感謝です。)
私たちは、女性として生まれただけでは女子にはなれません。
脱毛したり、メイクを研究したり、清潔感を出したり、愛嬌を身につけないと、現代社会では女子にはなれないのです。
そういった身体的・社会的な“加工”を楽しめればいいのですが、あまりにもそれが画一的すぎて、ときに自分ではない自分を強要させられている感覚になってしまうことがあります。
もちろんこういった性にまつわる生きづらさは、男性にも言えます。
はっきりとした性別違和がなくても、私たちは自分の性別を受け入れ、順応できるところは順応し、
抵抗を感じるところはそれなりに距離をとって付き合っていくことで、自分の性別慣れをする必要があるのです。
本来、性の受け止め方や表現の仕方は人それぞれで、兄弟・姉妹間でも違ってきます。
性別はグラデーションと言われているように、その人にしかない性の受け止め方があり、表現の仕方があります。
しかし、
男性だからこうあるべき
女性だからこうあるべき
と語る時代ではとっくになくなったものの、未だに社会の中にそういった偏見が残っているように感じます。
性に対してネガティブなブロックが起きてしまう原因として、思春期に経験する身体的な変化以外にも、以下のものがあります。
父親の母親に対する態度
母親自身の女性としての自己像
母親の自分に対する態度
両親の離婚・再婚
性被害の経験
文化や時代背景、メディアなどによる影響
(※娘視点の場合)
父親が母親をないがしろにしていれば、当然ながら女性という性に対するネガティブなブロックができあがってしまいます。
母親が自分の性別を否定している姿(美容に関心がないなど)も、女性として傷ついたイメージとしてネガティブなブロックにつながります。
また、母親が過度に潔癖な場合(娘に対して“化粧がキツい”、“洋服が派手”などと言う)も、性に対してネガティブなブロックになります。
文化的な視点でも、たとえば日本は『嫉妬』などの漢字はおんなへんが2つと、女性だけが嫉妬するかのような偏った印象を与えます。
また、日本では生理用品を買うと黒いレジ袋や紙袋に入れられることがあります。
ナプキンのパッケージはピンクや黄色などのパステルカラーでかわいい絵柄なのに、黒いレジ袋に入れられることで、生理(=女性)は
恥ずかしいもの
隠すべきもの
といったメッセージを、暗に社会が提示しているように感じます。
以上のことから、育ってきた家庭環境や社会的、文化的な背景から、私たちは知らず知らずのうちに性に対してネガティブなブロックを持ちやすいことがわかります。
私は女性なのでどうしても女性視点から書いてしまいますが、性別を引き受けることの生きづらさは男性・女性どちらともにあり、
ミソジニー(女性嫌悪)やミサンドリー(男性嫌悪)として、性別問わずに私たちの中に複雑に絡み合いながら存在しているように感じます。
また、女性の生きづらさが注目されやすい一方で、“women-are-wonderful effect”(女性は素晴らしい効果)として、女性の方が男性に比べて優位であるという研究もあり、
女性だから大変
男性だから大変
と一概に片づけられない側面があります。
本来性別というのは、まっさらな白いキャンバスのようなものだと感じます。
しかし育っていくうちに、いろいろな角度からいろいろな人に自分の好きじゃない色の絵具を投げつけられ、
気がついたら、ぐちゃぐちゃのキャンバスになってしまっていた。
けれど、キャンバスを好きな色で塗りなおすこともせず、まぁ自分はこんなもんかと、ぐちゃぐちゃのキャンバスを引き受けてしまう。
それが、なんとも表現しがたい性別違和や生きづらさにつながっているのではと感じます。
なんか違うなぁ、なんか嫌だなぁと思いながらも、そのキャンバスが自分だと思い込んでしまうのです。
しかし、自分の性別は好きに自由に表現していいのです。そして、その表現は社会の中できちんと認められるべきなのです。
急にやってきて持たされても、まわりを見渡してみんなと同じような持ち方で持たなくていいのです。
大事なのは、自分の心の声に正直になることです。
本当はもっと自分の性を開放したい、思いっきり表現したいと思えば、好きなだけ表現すればいいのです。
本当はもっと別の形の性を表現したいと思えば、人からどう思われようと気にせずにその通りにすればいいんです。
家庭環境や社会で身に着けた見えないドレスコードにとらわれることなく、自分が愛したい、この自分が好きと思える自分を堂々と表現していっていいのです。
あなたの性別に罪はありません。あなた自身にも、もちろん罪はありません。
どんな状況にいても、どんな経験をしてきても関係ありません。あなたはただ、“白いキャンバスを失ってしまった人”でしかないのです。
もしあなたの中でなにか性に対して罪悪感や劣等感があるなら、それはアカのようなもので、もう自分には必要のないものとして、切り捨てていいのです。
もちろん、罪悪感や劣等感にはきちんと意味があり、その背景には傷やトラウマがあるため丁寧に取り扱う必要がありますが、
自分の性に対して間違って身に着けてしまった罪悪感や劣等感は、もう必要ないものなのです。
もっと社会が性に対して寛容になれば、どんな自分も、これが私ですと堂々と表現することができ、
“それがあなたにとっての女性らしさなんだね、男性らしさなんだね”、と認められ、うっすらと性別違和を抱えることもなくなるのではないかと思います。
そのためには、まずは性別問わず、私たち一人ひとりの中に存在している性にまつわるネガティブなブロックをなくしていくことが必要だと感じます。
おわりに
今回の記事を書いている中で、ふと、
“女性として生まれて一番嬉しかった(楽しかった)ことは何?”
と自分の中に問いかけてみたのですが、自分でもびっくりするほど答えが浮かびませんでした。
私は独身で出産経験もないので女性ならではのライフイベントを経験しておらず、しょうがないといえばしょうがないのですが、
結婚(恋愛)や子育て以外で女性としての楽しみが見いだせないのは、少し寂しい気もします。
一つ思うのは、男性に比べて女性は自分自身(同性)の性を消費する性質があるということです。
鏡の前でお気に入りの洋服を着てテンションが上がる
理想のスタイルを目標にダイエットに励む
などは、男性よりも女性の方が得意な気がします。
個人的に、女性は男性的な視点で女性(自分)を見ることができると思っているので、
ときめく対象が幅広く(もしくは、それを表現することが男性より社会的に許されている)
男性に比べて、“両性”を楽しむことができるのではないかなと感じてます。
けれど、これは身長が異様に高いという自分の性質も関係しているかもしれません。
何より大事なのは、この質問を自分に投げかけることによって、自覚がなかった性のブロックに気づくことなのかもしれない、と思ったりしました。
(生理がしんどい、嫌な目にあいやすい…などのネガティブな反応しか出てこない場合は特に)
この記事によってあなたの生きづらさが少しでも解消されますように…🕊
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