病気のつらい時に読んだ本①
私が医療事故で寝たきり状態の時、読んでいた本は、
夏樹静子作の『私の腰痛放浪記 椅子がこわい』だった。
有名な推理小説家が激しい腰痛になり、身体的、精神的にも苛まれいく様子が描かれている闘病記である。
今まで本といえば、漫画や自己啓発本を読むくらいだったが、自分が病気で寝たきりになるという思いも寄らない状態になってしまい、それから闘病ブログや本をむさぼり読むようになった。
その中でも、この『椅子がこわい』は枕元に置き、痛みが辛くなったら読んでは置き、また読んでは置きと何十回も読んでいた。
まえがきを引用
"私は、1993年1月から約3年間、原因不明の激しい腰痛と、それに伴う奇怪とさえ感じられるほどの異様な症状や障害に悩まされた。
考えられる限りの治療-最後に、どうしても最後まで信じられなかった唯一の正しい治療法に辿りつくまでーを試みたが、何ひとつ効なく、症状はジリジリと不気味に増悪した。私は心身共に苦しみ抜き、疲れ果て、不治の恐怖に脅かされて、時には死を頭に浮かべた。
95年春、発症後2年余りした頃、私はもうほとんど仕事もできなくなって、自分はこの得体の知れぬ病気によって死ぬか、自殺するか、それとも余病を併発して死ぬ(毎日ひどいストレスにさらされているわけなので、その可能性が最も高いと思った)以外にないと考え始めていたから、せめて自分の経験したことをありのまま記録しておこうと心に決めた。”
『椅子がこわい』(まえがき)より
腰痛で自殺まで考える?と思う人もいるかも知れないが、私は痛みに限界がないことを嫌というほど体験してきた。
出産をはじめ、片頭痛、尿管結石、腎盂腎炎、座骨神経痛、帯状疱疹、肩の腱板損傷…それなりに痛みがともなう病気になったことがあったけど、神経損傷というのは、その痛みの数万倍超えていた。(もう数値では表現できない痛み)
しかし腰痛も神経損傷も、たとえ自身の限界を超えた痛みであっても、命を奪う疾患ではない。
命を奪うような病気ではないのに、死など考えることが、母や息子に申し分けないという罪悪感があった。
私は元々自分の感情を言葉にするのが苦手だが、この本は私の思いを代弁してくれているように思えた。
夏樹さんは3年間、様々な治療をされても良くならず、心身共に苦しみ、疲れ果て、そして最後は良医に恵まれて思いよらない病名と治療で腰痛を克服されていた。
作者の苦痛の描写や治療への執念が凄まじかったけど、その痛みに耐えた人がいるのなら、私にもできる…耐えられると思っていた。
そして、この本を何回も読んでいるうちに、病名が違うから治療は同じではないが私の内部にある夏樹さんと共通する心の問題に気が付いた。
それは非常に強い、「思い込み」と「執着」だった。
一見マイナスにとれる、この要素は、時には勉強や仕事など本来の能力以上の力を発揮することもあるけれど、これが病名や治療、痛みにその矛先が向けられるとドツボにはまってしまうのではないかと思った。
そして、この本の中で心療内科医の『症状を持ったまま治る』『治らずして治る』の深い言葉はまるで私に向けられたかのように受け取るようになった。
病名や治療は違うけど、心は同じだと思い、痛みを無理に治そうと執着するのではなく、病気や痛みがあっても、身の丈に合った幸せがあるのだと思えるようになった。
私の内部にある強い執着を少しずつ解き放して、心が穏やかになっていった。
最後にこの本のあとがきの言葉を引用して終わりにしようと思う。
あとがきからの引用
"人間には自分が知っていると思うことの、何百倍も、何万倍も、知らないことのほうが多いのだ。
だから、たとえ最悪の不幸と感じられるようなことに遭遇しても実はその時自分の前には幸福の扉が開かれつつあるのかもしれない。
そしてどんな時も、そういう形の希望を抱くことは、そのこと自体が苦しみから解放に手をかしてくれるだろう―と。”
『椅子がこわい』(あとがき)より