規律と自由
人に物事を教えることは容易ではない。
例えば職場の同僚に仕事のノウハウを完璧に伝えることは難しいというか、不可能である。
そう考えると教育者は優れた存在だ。
ボキは満足に義務教育すら受けていないので高等な学問を学んではいないが、難問に勝ち得た学歴を持つ方々は相当な努力を積んだに違いあるまい。
ふむふむ…
決して馬鹿にしているわけではないよ。
むしろ称賛しているのだよ。
で、数少ない経験から紐解き最も印象に残る先生を考えた。
するとボキの中では小学校の中学年の担当した国語の先生だな。
読み書きよりも感情や自身の言葉についての課外授業が多かったことも影響しているのだろう。
特に作文を通して自身が本当に思った事柄を書き残しなさいと常々語っていた。
未だに支離滅裂な文章で多くの方々にご迷惑をお掛けしていると思われるが、この先生との出会いがきっかけとなり思ったことを書く楽しみを知ったのは事実だ。
このような内容と重なる映画が邦題『今を生きる』だと思う。
ご存知の方もおられるだろう。
この作品は伝統を重んじる全寮制の学校を舞台にした映画だ。
主役を演じるのが英語教師のジョン・キーティング役のロビン・ウイリアムズである。
キーティングの授業は側から見るとかなり型破りである。
先ず詩についての授業では、定義があること自体が間違いであり、自身の言葉や想像性を生かし語る事こそが詩の醍醐味であると語る。
そしてキーティングは頻りに ※「カルぺ・ディエム」という言葉を引用する。
(※因みに、 明日を掴むといった意味も含まれる。)
因みにこの言葉が持つ意義が「今を生きる」ことにつながる点だ。
実はかつてキーティングはこの学校の生徒であった。
それ故にこの学校が掲げる規律というものに違和感を感じていた。
こういった背景もあり生徒が不満を感じることも理解をしている。
生徒の多くがキーティングに共感を覚え、特にニールという生徒は疑うことなくキーティングが発する言葉を素直に聴いていた。
ニールを含め数人の仲間がキーティングに興味を抱くと、かつてキーティングが学生の頃に「死せる詩人の会」という一見すると怪しげなグループに属していたことを知る。
その内容をキーティングに正すと、洞窟で仲間が集い詩を朗読するといった内容だった。
時に自作の詩を描き朗読をすることもあったそうだ。
そこで重要な点が自身の言葉で語ることの必然である。
借りてきた言葉では人の心を動かすことは不可能だ。
より真実味を分ち得るには立証する義務が生じる。
そこに詩の醍醐味があり魅力があるのだと生徒の数人は知る。
ニールのクラスメートであり、同じ部屋の仲間であるトッドはニールに比べ大人しい性格だ。
二人は対照的な性格ながらも信頼は堅い仲である。
次第にニールと仲間らはキーティングが属していた「死せる詩人の会」に興味を抱き同じことを繰り返そうと試みる。
ニールは仲間と共に過ごす時間は最高であるのに対し、両親と過ごす時間は堅苦く重かったようだ。
要するにニールは自己主張ができなかったのだ。
特に父親はニールに対し大きな期待を抱き、学校を卒業した暁には医者になってもらおうと勝手に考えていた。
親の期待とは裏腹にニールの本音は役者を夢見ていた。
学芸会の延長ほどの舞台で主役を演じることが決まったニールは素直に喜んだ。
ニールと同様、仲間もまた応援する。
だが、ニールの父親だけは素直に喜べなかった。
その理由は演劇は娯楽の対象でしかなく、世の中に役立たないと勝手に決めつけていたからだ。
それでもニールはこの舞台を辞退することも考えていなければ、父親に従うつもりはなかった。
結果的に舞台は成功するのだが、誇らしげなニールとは違い父親は怪訝な態度を示す。
この前にニールはキーティングに相談をしていた。
父親に反対されている演劇を成功させたいと。
その問いにキーティングは自身の声で率直に伝えるべきだと答える。
仮に本心が伝わなかったとしても、伝えることに意義があるのだと主張するキーティングであった。
その後ニールは強制的に父親と共に実家に移される。
そして父親から散々と説教を喰らい、何か言いたいか?と問われるのだが、ニールは考えはするものの、反抗することなく父親の言い分に沿う形で黙り込む。
その数時間後に悲劇が起こる。
ニールは父親が隠していた銃を持ち自ら命を経つのであった。
それからニールの死後、矛先はキーティングへと向けられる。
規律から背く授業をしたキーティングの悪影響が発端となりニールが命を絶ったのだと。
少なからずニールを知る生徒らは抵抗する。
学校側の言い分は間違いであり、自由を根本的に否定した大人たちが残した課題であると言いたげに。
改めて学校の意義とはなどと考えると、社会に旅立つ前に必要な規律は当然大事だが、自身の声の一つである主張もまた不可欠であると痛感する。
主張は個性でもあり自身の声でもある。
これらを否定されたり、遮断されてしまうと自由の意味と意義の存在そのものが不透明となる。
また不透明の中に嘘と事実が交差し、芸術が宿ると確信する。
複雑な今でこそ、観るべき映画の一つであると改めて紹介したまでだ〜♪(下條アトム風に)
わーお!