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汚れる前に…

久しぶりにレオス・カラックス監督作品、邦題「汚れた血」を観た。

当初観た感想を率直に述べると、シーン毎にクラシック音源を巧みに使いながら、新しい波(ヌーベルバーグ)を多用した作品であると把握しつつ感心していた。
だが、改めて観ると大きく期待を裏切るのであった。

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ご存知の方もおられるだろうが、レオス・カラックスはフランスの映画評論または批評で名高い記者でもあり、ゴダール監督の追っかけでもあった。
その影響もあり第一作、邦題「ボーイ・ミーツ・ガール」(アレックス三作品の一作目)ではモノクロームで出演者の感情を表すかのように、言葉とは別の日常(現実)を表現した作品に仕上がっていた。

こういった背景を紐解き、単純に第一作を追うように錯覚していたからこそ誤解を招いたのだろう。

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だが、先ほど述べた通り改めて解釈すると第二作の「汚れた血」は後に橋渡しする邦題「ポンヌフの恋人」に劣らぬ作品に仕上がっていると気付く。

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ネタバレを述べると、後発の「ポンヌフの恋人」は当時交際していた主人公の一人であるドニ・ラヴァンではないジュリエット・ビノッシュへの愛の告白としても有名だ。
本来ヌーベルバーグ(新しい波)に従うのであれば、破滅的な終わりで作品が収まるのである。

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しかし「ポンヌフの恋人」の舞台となるポンヌフという橋はフランス語で「新しい橋」という意味もある。
この作品が実在でなく全てセットであるといった能書きは置いといて、中盤である「汚れた血」にはポンヌフという橋と覗き魔またはストーカー役で監督本人が出演している。
「ポンヌフの恋人」でもあったが、元々大道芸人であるドニ・ラヴァンの長回しで踊るシーンが印象に残る。
要するに表現するにはとても難しい課題である、生と死を絶妙に表現している点が優れていると今にして思う。

ヒント、アレックスの腹話術はとても最高だ。
次にアレックスを心配した恋人がバイクで疾走するシーンはジョン・アービングの「熊を放つ」を彷彿とさせる重要なシーンである。

いずれの作品の共通点は開放である。
即ち若気の至りも後になって開放だと気付く。
加齢と共に若き日の出来事を思い返すと、人生を取り戻すカムバックよりも、あの時できなかった後悔の念ばかり責める日々を虚しく思うのである。

そうそう、すでにボクチンのような汚れた大人にこそ観てもらいたい作品だ♪
きっと改めて「星の王子さま」を読み返したような錯覚を覚えるカモ☆

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