傷ついた石の輝きが目をくらませるその瞬間
懐かしい本を手に取った。
淡く儚く美しい表紙に飾られた、もろく砕けそうなセラフィナイトのような詩集。
青木景子。
17歳くらいのころ、本屋で偶然見かけた雑誌「詩とメルヘン」に載っていた詩は、いったいどれだろうか。
一冊をのぞいて、全ての詩集を持っている。
「詩」というのは、私は中原中也とか、北原白秋くらいしか読んでなかった私には、こんj表現方法があるのかと、「詩とメルヘン」、と青木景子にのめり込んだ(詩とメルヘンは5年くらい定期購読したのだが引っ越すときにやめて、バックナンバーも処分してしまった)。
「風に中の少年たち」は、私が一番最初に買った、青木景子の詩集であった。
ほんの数行の言葉が、幾万の言葉より雄弁にあざやかな世界を造る。
私はすぐに影響を受けてしまうので、青木景子風の詩を、毎日毎日、繰り返し繰り返し、書き続けた。
私の記事を読んで下さっている方はご存じのように、私は短い文章を書くのが苦手である。
書いてる最中から他のことに興味が飛んで、散らばって訳の分からない長文を書いてしまう。
青木景子のような詩が書きたい。
それは、どれだけ好きな小説家にも思ったことがない衝動であった。
私はいつも受け取る側。
すばらしい作品は世にあふれている。
私が書いていた小説も、私の個人的な楽しみであって、誰に見せるものではない。
その私が、生涯一度だけ、「詩とメルヘン」に作品を送ったことがある。
見事落選したけれど。
内気で小説を書いていることなど友人にも話したことのなかった私には、自分で応募しておいて落選したことよりその行動に驚いた。
その作品は、手書きのノートに残していたけれど、度重なる引っ越しでいつかなくしていた。
17歳の私はどんな夢見がちな詩を送ったのだろう。
あの頃書いた詩で覚えているのは、「真夜中のウンディーネ」、「Pluto」、「至と譲シリーズ」、…たくさん書いたな。
「至と譲」シリーズは、思い入れのある作品であるけど、全て手元にない。
また、書いていきたいな。
しかし、今の私にBLが書けるだろうか。
同性同士でないと話が成立しないのだが……いや、至を例えば殺人犯の子供にして、譲を被害者の子供にしたら……
至って名前使えんな。至は変えたくない(BLありがちなこだわりのため、逆カップルは許せない)。
でもこの年まで書いてきて、やっと気づくのだ。
私には、青木景子のような詩は書けないことに。
だって私は私であって、永遠に青木景子にはなれない。
透明感ある世界、虹のような言葉選び、割れたガラスのように心にかき傷を作る詩。
だからこそ憧れる。
諳んじてしまった詩も多いけれど、今日は青木景子の世界に戻ろう。
ずっと脳裏に焼き付いて、離れることなど出来ない詩たち。
傷のついた石が、思いがけない光を放ち目をくらませる。
そんな詩が書きたいから。