なぎ家の場合は
予約して下さったかた、ありがとー!
15日発売の私の2冊目の本、「そこに愛がなくてもよりよって生きているふたりの道」予約販売開始。
予約特典、16日まで99円。
(15日は遊びに行くのでKDPにかまっている時間がない)
昨日の夜告知して、今朝予約が入っていたのを確認。
うれしいなあ。
さて、今日は戦士の休息。
あさんぽ行ってからゲームして、紅茶を飲みつつ、読書。
新刊のため、実用書をたくさん読んだから、今日は久しぶり小説読みたかったが、体力が戻ってないので、読み慣れたエッセイにした。
中島梓/今岡清
「今岡家の場合は」
初版1刷りで買ってる。
22歳、11月か。
「私は読み続けたい」
前に、「読書を禁止された暗黒の1年間」があったと書いた。
禁止されたとき、最後に読んだ本は覚えてないが、禁止を振り切って買って読んだ最初の本がこれなのは覚えている。
栗本薫として、この頃は「終わりのないラブソング」「天狼星」とか書いていたのかな?
確か、魔界水滸伝は20巻で一度完結していたと思う。
「魔都」「魔都ノート」を読んで、「小説家・栗本薫」から急速に興味をなくしていっていたが、中島梓の本はどうしても読みたかった。
1時間ほどで読み終えて、思った。
「私は本を読み続けたい」
それが小説でも、エッセイでも、なんだっていい。
1時間、作品によっては2時間3時間、または数日にまたがることがあるが、「読む時間」は私にはかけがえのない、至福の時間だ。
映画、アニメでは補完出来ない。
中島梓の本を読む度に、その気持ちを新たにする。
「私の1日」
この本は、中島梓が、夫今岡清と、別々に同じテーマを書いていくスタイルの本。
巻頭と巻末に「対談」があるが、こういう本ってなんて呼ぶのかな。
(調べたら交換エッセイとあった)
どのテーマも興味深い。
「『あのSFマガジン編集長』今岡清をハウスキーパーにした天才小説家栗本薫/中島梓」の、日常生活が書いてあるのだ。
交換エッセイの一番最初は、「私の一日」。
仕事を辞めて、フリーの毎日の不安と頼りなさ、それでも喜びを見つけようとする今岡清。
中島梓は「朝が弱い」で始まる。ほんとこの人の本にはよく書いてあるな、と微笑ましい。
人を食ったようなエピソードで終わる、「中島節」が効いていて、ファンとしたらたまらない。
私の1日は、note公開通り。
朝3時か4時に起きて、血圧測定(70/38になってしまった。塩舐めよう)、体温測定、歯磨き。
水を飲んでからヨガかストレッチ。出来る日は筋トレ。
最近夜が明けるのが遅いし、不審者情報があって(私のことかと思った。60代男性女性用下着をつけスカートははいているとあって、安心した)、最近は早くても5時半を待ってあさんぽ。
1時間程度歩いて帰りストレッチしてから、家事。
ゲームしながら朝ご飯(プロテインで済ます事が多い)。
皿洗い後、歯磨きしながら読書。だから歯磨きが30分とかかかる時もある。
8時から9時、仕事開始。
経理の仕事、noteを書くこと、Kindle出版用の原稿のストックを書くこと、もうまとめて「仕事フォルダ」行き。
12時、休憩+ゲームのバトル。
その後食事して、片付け、家事、シャワーをして身支度整う14時くらいまで休憩。
その後、だいたい17時くらいまで仕事。
19時くらいから、自由時間。
21時には寝たいが、最近23時くらいになってしまうのが悩み。
「なぎ家の場合」
一人暮らしなので、家事は自分でするし、多少の買い物なら自分で行けるようになった。
しかし、牛乳など重い荷物を伴う買い物、換気扇掃除、家電のメンテナンス、粗大ゴミを出すことなどは、北が全てやっている。
これに、私の通院、実家から帳票類を預かってうちに持ってくる「運転手兼メッセンジャー」の仕事がある。
北の労働への報酬は、ない。
この人、無料のボランティアでこれやっている。
ちなみに、北の家からわが家まで1時間、北の家から実家まで、わが家と反対方面に40分、実家からわが家まで2時間かかる。
さすがに帳票類は「郵便で送れ」と何度も弟に言っているのだが、何が悪いのかよく分かってないようだ。
「君がKindle作家として大成したら、俺を養ってもらうからいいよ」
などと言ってくれる。
ほんと、歪だよね、私たち。
その「異常」を実感しているならそれでよし、と北は言う。
『面倒を見たい人』と『面倒を見られたい人』
「今岡家の場合は」を読み返すと、本当に強く思う。
北は100%「面倒を見たい人」で構成されている。
ペットを飼ったことはないが、例えば私がペットを飼って、餌やりや散歩は私がするだろうけど(楽しいから)、その餌を買ってきたり、ペットの居心地のいい居場所作りをしたりするのは、北がするのは目に見えている。
私は99%、「面倒をみられたい人」だ。
残りの1%は、親友に対するもので使い果たしている。
残りは、「面倒を見ている」と見せかけて、こっちの思い通りに話を持っていき、気がついたら「私の計画通り」になっているだけだ。
「俺は、孤独でいたいけれど、寂しがり屋なのだと思う」
そんな矛楯を北が言った。
「私は人によくかまわれるけれど、はっきり言って鬱陶しい」
と私は言う。
幼少期の体験を話し合う。
やはり、幼少期の体験は、深く重い。
そんな
「孤独な寂しがり屋」
「誰かに頼らないと生活して行くことが出来ない」
私たちは、需要と供給がうまくいっているのかもしれない。