暗い森の少女 第一章 ⑧ 揺れる思い
揺れる思い
小学生になって変わったのは、子供たちのいじめが減っただけではなかった。
花衣にねちねちと絡むように暴言を吐いていた上の叔父は、仕事で当直を任されることが増え、会社の敷地内にある寮に引っ越したのだ。
また、酒を飲む度に花衣の体が引きちぎれそうなほど折檻を繰り返していた下の叔父は、会社をやめて、漁師になってしまった。
気性の激しい暴力的な下の叔父だが、百戦錬磨の海の男たちにもまれたせいか、カッとしてもいきなり殴りかかるようことをは減り、帰ってくるときは家族に土産にイカやカニのつまったトロ箱を何段にも持って帰ってくる。
夏に下の叔父が帰ってきたときなど、新鮮な刺身を花衣に食べさせたいと、学校に連絡をして花衣を早退させることもあった。
学校側は、花衣が母子家庭であること、母親が働いていて祖母が花衣の面倒を見ていること、その祖母が病気で寝込みがちであることを知っていたので、早退をさせて欲しいと連絡がある度に、祖母が倒れたのではないかと心配して、花衣を帰らせた。
草が茂った通学路路を、走ることが苦手な花衣は必死にそれでも走って帰る。
花衣は祖母が大好きだった。
祖母は花衣を甘やかし、花衣の望むことはなんでもしてくれる。
たまには叱られることもあったが、それは花衣のためだ。
祖母が、下の叔父からの暴力からはまったく守ってくれないことに、疑問は持てなかった。
(花衣が悪い子だから)
そして、
(お酒が悪いの、おじさんは悪くない)
祖母はいつもそう言っていた。
「おじちゃんは本当は優しい子なの。ただ、お酒が悪い、お酒さえの飲まなければ……」
繰り返しそう言わても、やはり下の叔父のことは怖かったが、酒を飲んでいない時は本当に明るくて楽しい人間であることは確かなのだ。
心の矮小さを表したような小さな体つきについている顔の小さな目に、卑屈さを浮かべてしんねりむっつりとした上の叔父よりは、花衣は下の叔父が好きだ。
酒さえ飲まなければ。
花衣は、はあはあと息を切らして家に辿り着く。
「おかえり」
割烹着姿の祖母が、花衣を笑顔で迎えてくれた。
いそいそと台所で料理を作っている。
「おばあちゃん、苦しいんじゃないの?」
「え? そんなことはないよ」
居間には下の叔父が座り、日本酒を手酌で飲みながら花衣に手招きした。
「花衣ー、元気だったか? 学校はどうだ?」
一升瓶からラッパ飲みせず、下の叔父の好物の祖母の卵焼きをつまみにちびちび酒を飲んでいるなら、今日は大丈夫。
花衣は、酒を飲んだ叔父がいつも暴力的になるのではないことを学んでいった。
「今日は白イカと甘エビが大量でな。沖で食べる味にはかなわんけど、どうしても花衣に早く食べてもらいたくてさー」
機嫌のいい叔父は、花衣を膝の上に乗せようとする。
もうそんなに小さな子供でないという気持ちと、叔父に逆らったら怖いという気持ちが交差した。
「まあまあ、花衣はもうそんな赤ちゃんじゃないわよ」
料理を運んできながら祖母が久々に明るい声を出す。
叔父たちが出て行ってから、祖母は淋しそうにしていた。
家事の負担は減って寝込むことはなくなったが、それよりも息子たちと離れて暮らすことが辛いようだ。
白イカの刺身、イカ焼き、天ぷら、甘エビの刺身などがテーブルいっぱいに広がった。
「刺身から食え。鮮度が大事だからな」
下の叔父は花衣の髪をわしわしとかき乱す。
花衣は言われたとおり、透き通るような白いイカの刺身を食べる。
なめらかで、こりっとして、甘い。
イカ焼きも、祖母は工夫してイカの胴体に足をいれて焼き、それを輪切りにして出した。
「お花が咲いたみたいでしょう?」
花衣を見つめる祖母の目はあたかい。
叔父に勧められるまま、順番に料理を食べていった。
小食であると、こうやって家族で団らんして食事をとることが苦手なのだとか、気づかれてはいけない。
そんなことを気づかれたら、叔父の狂気のスイッチを押すことになるだろうし、祖母を悲しませることになる。
(花衣がいい子にならなくちゃ)
下の叔父の話にきちんと相づちをうち、食べたものの感想も言わなければならない。
緊張のあまり、胸の奥がつかえたように痛んだ。吐き気もする。
叔父はいい調子で飲んでいたが、仕事の疲れか酒をやめて、シメに祖母に焼きそばを作るように頼んだ。
今日は殴られない。
花衣はそっと、息をつく。
「友達はできたのか?」
叔父は皿に残っている刺身をつまみながら聞いたが、思い直したように言い直した。
「まあ、みんな保育園から一緒だから変わらないか」
「三好のお兄ちゃんや明久のお姉ちゃんが2年生にいるし、大丈夫よ」
ソース焼きそばを手にした祖母が居間に戻る。
「みんな保育園から一緒だし、面倒見がいい子ばかりだし」
「幼なじみって奴だよな」
花衣の返事も待たず、話は進んでいく。
しかし、花衣には、三好のお兄ちゃん、明久のお姉ちゃん、の顔と名前が一致しない。
近所に住む、年上の子供で花衣と「遊んでくれる」ものは、大人が見えないところで花衣をいじめている。
また、その家族も花衣を見かけると、怒鳴ったり、ひどいときは石を投げてきたりするので、花衣は怖くて、自分に近づいてくる子供や大人の顔や声を覚えなくなった。
みな、名無しののっぺらぼうの顔をしている。
その名もない顔もないひとにされたことを、花衣は徐々に自分の記憶から消すようになっていたが、そのことにまだ気がついていなかった。
「そう言えば、瀬尾の子供が花衣と同級生になったわよ」
皿を片付けながら、祖母が思い出したように言う。
「瀬尾?」
「ほら、町のあちこちに大きなスーパー建てた、瀬尾さん」
「ああ、惣菜屋か」
「今は立派なスーパーが3つも4つもあるわよ」
花衣は、瀬尾という名前にかすかに反応したが、じっと大人たちの話に耳をそばだてた。
「息子さんが東京の大学を出て、そちらのお嬢さんと結婚してたらしいけど、家を継ぐのに子供さんが小学校に上がるのにあわせて帰ってきたんだって」
「俺より10も年上だから覚えてないな」
どうやら、瀬尾の家は昔から地元で小さな惣菜屋と営んでいたようだ。
戦争が終わり、流通が整った頃、惣菜屋の社長が、地元で初めてのスーパーマーケットを作った。
個人商店からツケで買うようなことが多い町では、いつも現金払いのスーパーに反発の声もあがったが、品揃えのよさ、値段の安さ、そして自慢の惣菜のうまさで瞬く間に人気店になり、地域に4つの支店を出すほどに成長したらしい。
「瀬尾の子供さんとは仲がいいの?」
祖母の質問に、花衣は考えながら言う。
「瀬尾くんは、みんなと仲がいいから」
「瀬尾のとこはせがれか。じいさんも跡取りが出来て万々歳だな」
なぜか叔父は意地悪げに笑った。
その後、仕事が終わった上の叔父も訪れ、母も帰宅し、食事をしながら姉弟で楽しげに話しているのが聞こえる。
花衣は自分の部屋で宿題をしながら、ちくちくする胸の痛みを感じていた
(瀬尾くんとは、惣菜屋さん)
花衣の住む村にはスーパーマーケットはなかったし、車の運転ができない祖母は、近くの個人商店で日々の買い物をすませている。
そういうお店は、おばあさんが店をやっているが、他の家族は別の仕事をしながら、朝晩農業をしているのだ。
(瀬尾くんの家は、農家じゃないのに、いじめられないんだ)
もともとはこの村の大地主で小作人をたくさん抱えていたが、農家をたたんで商売をはじめた瀬尾の家と、よそ者で農業をしていないわが家を比べることがおかしいのだとは、まだ幼い花衣には分からなかった。
瀬尾の、いつも口角が上がった明るい顔を思い出す。
誰からも好かれる瀬尾。
理不尽さを感じながら、それでも瀬尾のことを嫌いにはなれそうにない。
幼い恋を自覚しないまま、花衣は瀬尾のことを思い続けた。