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「あなたの努力は無駄である」

 ※注意
 ある特定の宗教への批判記事です。
 名前は出しませんが、不愉快になられる可  
 能性があります。

無宗教か無神論者か

私は無神論者だ。

日本人はだいたいそうだろう。

また、世界的にも無神論が広まっているという本を読んだ。

まあ、日本の神道は民族宗教で教祖も経典もないしな。

日本人は「無宗教」という言葉は腑に落ちた。

ならば私は無宗教者だ。

神道と仏教の狭間で育つ

私の生家は、「祖母が嫁にいった家」で、そこには祖母の母(私の曾祖母)に養子に行った母と私と曾祖母も住んでいた。

祖母が嫁いだ家は「神道」。

曾祖母の家は「仏教」。

テレビでたまに見る、天井近くに小さく奉られている神棚でなく、押し入れひとつ潰して作ったばかでかい神棚が、もともと家を建てるときに一緒に作られた仏壇の隣にあった。

はっきり言って仏教と神道の差はあまり分からない。

祖父の葬式のときの祝詞は、お経よりも好きだったかな。

でも、お盆に祖母が用意する(当時は)ろうそくを中に入れると、中の透かし絵がくるくる回る盆ちょうちんが、幻想的で大好きだった。

あと、お正月に神道ではスルメや板わかめ供えていて、お正月が終わるとストーブであぶって食べるのが楽しみだった。

お盆に仏壇に大量に供えられる季節の果物をいただくのも好きだった。

宗教とはなにかと思った事件

私は内向的なあまり外界に興味のない子供だったので、曾祖母と祖母の間にある深い溝に気づかなかった(曾祖母は祖母の継母だった)。

そうして、曾祖母の部屋に、小さな黒い仏壇がいつの間にかあったことも、言われるまで気づかなかった。

それが新興宗教のもので、曾祖母が入信したことも、何もかも終わってから知らされた。

曾祖母は私には優しかったが、祖母や母には冷たかった。

曾祖母を尋ねて遠縁の人たちがよく出入りしていた。

彼らは私に感じよく、いつもケーキやおもちゃを持ってきてくれた(私はケーキが嫌いだし、おもちゃより本がよかったが)。

彼らが来ると家の空気がピリピリして、鈍い私でも気がついたが、その理由は分からなかった。

私が10歳になった頃、曾祖母は目を悪くして入院した。

とても長い入院だった。

ある日、帰宅すると祖母が庭でゴミを燃やしていた。

ごうごうと煙が出て、火はなかかな回らないようだった。

なにか大きなもの…

じっと祖母の後ろから見て、それが、曾祖母の部屋の仏壇と分かった。

曾祖母は親戚に言われるままに新興宗教に入信して、莫大な寄付をしていたのだ。

それは、祖母が相続することが出来なかった、曾祖父の遺産からであった。

見えない「何かに」違和感が生まれた

私の幼なじみには、大きなお寺の跡取り息子がいたし、親戚にも、坊主、神父、牧師とそろっている。

幼なじみのお父さんは地元の名士であり、学校にもよく来ていろいろ面白い話をしてくれる。

母は聖書を6冊くらい持っていたけど、別にブッタの教えとかイスラム教の本とかも持っていたので多分読み物として楽しんでいたのだと思う。

その事件があるまで、私にとって宗教とは、毎日お水をかえてご飯を供えて、お盆や正月はお祭り騒ぎをするくらいの印象だった。

なにか、嫌だなと思った瞬間だった。

この経験が、私がスピリチャルなものに一定の距離を置く理由のひとつだと思う。

「墓守の娘」

私は17歳まで跡取り娘であったので、お墓や仏壇の管理を行うようしつけられていた。

しかし、弟が生まれて、あっさり「墓守」の立場は奪われた。

いや、奪ってくれてありがとうだけれど。

その後家を出て、盆正月の関係ない仕事に就いたので(県立病院はカレンダー通りだし、盆暮れは帰省の方が救急ではいって来るのでむしろ忙しい)、自然と墓参りにも行かなくなった。

母も特にとがめもしない。

そんなもんだ、跡取り息子がいるのだから。

恐怖の出会い

その頃、職場の知り合いの知人の妹の知り合い、くらいの人を紹介される。

大人しそうな、地味な人。

印象はそれだけで特に何も思わなかった。

会う度に、「本が好きと聞いたので」と、なんか薄い本を渡してくる。

「幸せになるために」みたいなタイトルで、殺戮とホラーをこよなく愛する私は読まずに捨てていた。

あるとき、私はからだを壊して入院した。

田舎で入院などすると、旦那の会社の部下の奥さんの弟の嫁、ぐらいの人も見舞いにくるものだ(当時)。

毎日、誰これ、と思いながら見舞い客の対応をして、むしろ自宅療養の方がいいのでは思った頃、「本をくれる大人しい人」が見舞いに見た。

そうして、

「からだが弱いなんて、信心で治るのよ」

と、不思議なことを言い出した。

話を聞くと、この人は、新興宗教の熱心な信者だった。

しかも、曾祖母と同じ宗教。

あなたの努力は無駄である

退院してから、私は徹底的にその人を避けた。

仲のいい人には事情を話してその人が来たときは窓口に出ないようにした。

しかし、今ほど個人情報について厳しくなくて、誰からか、携帯番号がばれ、自宅もばれた。

私は大人しいような顔をして気が強いので、けっこうはっきり断った。

迷惑だ、本も読んでない、気持ち悪い。

しかし、ゾンビのようなしぶとさで、ほぼ日参されるのは困った。

ある日、残業で帰宅したのは22時過ぎ。

部屋に電気がついたのを見られたのか、疲れ果てた私の自宅にその人が来た。

次の日は始発で早出が決まっていた私の機嫌は最高潮に悪くなった。

その人は、くどくどと、信心すればなにもかもよくなる、信心をしないのは不幸なことだ、というようなことを言ってくる。

しかも、同じ宗教の独身の人のお見合い話をもって来やがった。私に付き合っているひとがいることは知っているのに。

40代の童貞など興味はない(当時私29歳)。

切れた私は半分怒鳴るように言い返した。

「私の仕事も今の収入を得ているのも、私の努力の結果です。私の恋人もずっと努力をし続けてます。あなたの言葉は不愉快です」

そのひとは、ひどく同情するような目で私を見た。

「あなたの努力も彼の努力も、信心をしてないなら無駄なのよ」

その後の記憶はない。

その後もそのひとのつきまといは続いたが、私が転職したことで切れた。

宇宙人に出会った経験

その頃、少し仲良くなった女の子がいた。

その子はあの新興宗教に入信していた。

げっと思ったのが顔に出たのか、

「あ、全然勧誘なんてしないよ。私は入信しなかったら結婚出来なかったから、名前だけ入ってる感じ」

お付き合いしていたひとが、その宗教の3世だかなんだかで、入信することが結婚の条件だったそうだ。

彼女のお腹には赤ちゃんがいたのに。

その頃は二人目の生まれて、幸せそうな彼女だったが、

「こないだ旦那がねー、長女の寝顔みながら、お前が入信しなかったらこの子はいなかったんだなーって言ってて」

あっけらかんというのが怖かった。

同じ頃、共通の知り合いの旦那さんが急逝されて、私たちは一緒にお通夜に行った。

泣き崩れる知り合いを慰めて、彼女の車で来てたので、送ってもらう帰り道、

「あのひとね-、結婚前はうちの宗教に入ってたんだって」

「そうなんだ」

「結婚の条件が宗教をやめることだったんだって」

私と反対だねー、と笑う。

「旦那が、あの人が不幸になるのは信心をやめた時から分かってって言ってたー」

ぞっとした。

同じ生物なのか?

その子とも、引っ越しを理由に疎遠になり、電話番号も変えてしまった。

「あなたの努力に価値はある」

努力すればなんでも叶うとは思っていない。

例えば私が今から歌手になるとか、モデルになるとか、そんなことを夢見ても叶わないと思う(願いもしないが)。

しかし、よく知らないひとから、

「あなたの努力は無駄だ」

と言われる筋合いがあるのか。

今までの私、これからの私、努力をやめたら何もかも消えてなくなるではないか。

私は与えられた環境に感謝しつつ、努力を続ける。

落とし穴はあちこちに用意されている。

だから私は

「あなたの努力に価値がある」

と、言い続けたい。

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