泣いて、終わりなら、どれほど救われただろう
たいしたことじゃないのよ
食事会から、北と2人きりで会って飲み友達になるのは早かった。
お互い、店に飲みに行くのが嫌いで宅飲み派。
私の仕事帰り、北が迎えに来て、酒を買って一人暮らしの私の家で飲む。
私が作るつまみを喜んで食べる北を見て、可愛いと思っていた。
私は、北に、今まで親友の佳子にしか話したことのない話をした。
「子供の頃、変な悪戯されたことがあってね。なんとく、男の人は苦手なんだ」
「21の時から7年付き合った、男もその家族も変で、600万貢いだ」
「このアパートの男に粘着されていて困ってる。奥さんもいるのに」
「宅配のおじさんにいきなり手を握られて、『結婚して下さい』って言われて」
「28の時から付き合っていた人と一回別れて、よりを戻したけど、別れたりひっついたりしてたら、あっち結婚してた。今、不倫してる」
酒を飲むから泊まって行く、北のために敷いたマットの上で、私は足を伸ばして淡々と話す。
北は、私が話せば話すほど深刻な顔をしてしまう。
「不倫はともかく、ここ、引っ越した方がよくないか?」
「営業所まで車で10分だしな、便利なんだよ」
「転職は?」
「私今年38だよ。簡単にはねー」
考え込んでしまった北に、私は笑いかけた。
「変な話してごめんね。たいしたことじゃ、ないのよ」
私は残っていた酒をあおった。
「俺、草食系だけど、牙はあるよ」
北の就職先が決まる頃、よく会う別のキャリアの営業の方から声をかけられた。
「家電量販でなくて、ショップのルート営業をお願いしたいの」
「ショップですか…」
「やることはたいして変わらないのよ。それに、ショップ担当だと、基本的に土日も休みだし、今みたいに店に張り付いて販売員の代わりに働くこともないし」
『無茶な働きかたをさせらている』は、他の営業の間でも噂になっていた。
「ただ、県内に限るけど、移動はあるの。なぎさん、車の運転苦手って言っていたわよね」
「転勤ですか。転勤のたび引っ越しをしそう」
「条件によっては、引っ越し費用も家賃手当もでるわよ」
少し考えさせて欲しいと、その日は別れた。
夜、北と飲みながら、だらだら希望と不安を吐き出す。
「月給は今より下がるけど、ボーナスがいいみたいなんだよね。業界最大手だし、フォローも色々してもらえるみたい」
「悪くない話だと思うよ。なにを悩んでいるの?」
「そうだね…」
不倫相手の顔が、頭によぎっていた。
物理的に彼から離れれば、私は彼から解放されて、この恋に終止符を打つことが出来るのではないか。
でも、私は彼と別れたいのだろうか。
グラスの酒を飲みきって、私は自分のベッドに倒れ込むように横になる。
「ねえ」
「ん?」
眠りそうになりながら、私は生返事した。
「俺、草食系だけど、牙はあるよ」
言葉の意味を理解する前に、私は眠っていた。
いつまでも忘れることの出来ない名前
3月半ば、北がやっと就職が決まったと電話をしてきた。
「臨時職員だけど、福祉課に勤めることにしたよ」
「いいね!公務員試験受けるの?」
「一応その予定」
「いつから?」
「4月2日から」
「じゃあ、私も明日休みだし、今からお祝いに飲まない?」
「いいね。酒ある?」
「ないから合流して買いに行こう」
北との電話を切り、出かける用意をしていたら、再び電話が鳴った。
「寝ていた?」
不倫相手からだった。
「どうしたんですか?」
私は緊張して固い声を出した。
「今日、辞令が出た」
「はい?」
「元の課に、戻れる」
彼も、奇妙に沈痛な声を出す。
私たちが一度別れたのは、色々な要因があったが、彼がずっと心血を注いでいた仕事から降ろされ、全く別業務の課に配属されたことが原因のひとつではあった。
彼は不本意な移動、また、慣れない仕事でイライラしていた。
また、私も同じ時に転職して、そこで嵐のような体験をして、彼を労ることがまったく出来なかった。
そして、私と別れた後、別の女性と付き合い、私と再会したとき、すでに結婚が決まっていたが、彼は、私も、彼女も、手放せない。
彼の移動がなければ、私が彼の妻になれた、とは思えない。
しかし、別れることがなかったら、彼は彼女と出会わなかったろう。
「おめでとうございます」
つまらない言葉しか浮かばない。
「うん、4月から、またあのビルに戻る」
「そうですね」
言ってしまってから、気がついた。
そのビルに、北の就職先があった。
「しばらくばたばたするから、連絡できないかもしれない」
「大丈夫です」
私は混乱を隠して、優しげな声を出した。
「お忙しくなるでしょうから、体に気をつけて」
「ありがとう」
彼との電話が終わったとき、北から電話があった。
「駐車場についたよ」
「今行く」
北の車の助手席に、何気ない顔で乗り込む。
「なにか、あった?」
北は不審げに聞いていた。
「なんで?なにもないよ」
私は笑って答える。
「泣いているかと思った」
泣いてすむような、そんな軽い気持ちではなかった。