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もう買えばいいのに

 図書館で借りても、本を読みきれない事が多い。どこもだいたいそうなのではないかと思うが、我が自治体の図書館の貸出期間は二週間で、他に予約が入っていなければ、一回だけ延長ができる。それでも読めないときは一度返却処理をして、また延長の申請を出す。
 そのようにして、じりじりと一章ずつ読んでいる本がある。石井美保の「たまふりの人類学」である。

 最近人類学や民俗学の本をよく読んでいる。とても示唆的だからだ。この本では、たとえば民俗学と数式の関係性について書かれている。神話の体系や、その民族の集落における人々の関係性を、シンプルな数式にして表すことができることがあるという。レヴィ・ストロースはそのような手法に長けた人であったそうだ。
 しかし、著者はそれが出来ないという。能力的に出来ないのではない。たとえ、人々の関係から夾雑物や変化を取り除いて、純粋な関係性だけを数式にすることができても、それには意味がないのではと考えるからだそうだ。ここからは私の推測だが、ある民族のシャーマンは、代々一定の役割を担っていて、それは代々引き継がれるものであろう。しかし、今の代のシャーマンを誰がやっているかによって、シャーマンと、民衆との間の関係は微細な変化を帯びるだろう。その変化をすくい取らずして、その民族のことを分かった気になっていいのだろうか。筆者の言うのはそういうことではないか。しかし一方で、そのような属人的で一回性のパラメータを、その民族についての理解に盛り込んでいいのか、という指摘もあり得るのだろう。

 この本の中で特に面白かったのは、禁忌についての話だ。BSEは同じ動物の共食いが禁忌であることの証左であるということから話がスタートする。かつて民俗学的な禁忌がしっかり存在した時は、動物や精霊、自然と人間の境界を、禁忌が守っていたのではないかと筆者は言う。ある民族の祀る神様の中には、天然痘の化身がいるが、彼らはその神様をただ忌み嫌うものとして扱うだけではなく、大切に敬いもする。それは、危険な他者の持つ両義的な力を制御しつつ利用する態度であり、危険な存在に対する禁忌や忌避は、力を安全に利用するためのテクニックである。その規範がなければ、わたくしと相手は混ざりあい、境界は危ういものになる。
 センザンコウという動物がいる。食料や伝統的な医薬の材料として取引される哺乳動物で、「世界で最も違法取引される動物」だそうだ。センザンコウを含めて、野生生物を取引する(闇)市場が、コロナウイルスのように、新たなパンデミックの発端になりうると、専門機関が指摘したそうだ。
 それは、人の規としても禁忌を侵した取引によって、(ウイルスを持つ)動物と人との禁忌が破られてしまったせいである、とする。センザンコウを通じてわたくしとあなたの間で何かが受け渡され、何かが受け取られる。しかしそこには、民族の禁忌が強く作用していた時には取引されていなかったものが含まれていたはずだ。
 近代化され個人主義化された私達は、もはや身に馴染んた共通の規範を持たず、守るべき禁忌を知らず、危険をはらんだつながりにどう対処すればよいかもわからず、途方にくれている……。

 (わたし)と(あなた)は互いにどのようにつながり、あるいは避け合うべきなのか。適切な距離を取り、相手との関係性を気遣い、(単純に同調するのではなくむしろ)脆弱な自他の境界をどのように維持していくべきなのか。

 ほら、もうこの本、買えばいいのに。

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