見出し画像

感情移入の種

 講座で、今風の名前を主人公に据えた作品を読んだ。読み方もよくわからないし、男の子か女の子かすらもすぐにはわからなくて、主人公の心を追う意欲を失ってしまった。

 このことから、私達がなにかを理解しようとするとき、何らかの枠組みがないと理解どころか、認識することも難しいということを改めて実感した。

 理解するために枠組みや名前があって、それに言葉が割り当てられているんだから当然なんだけど。「なんか動くもの」では虎を表したことにはならなくて、その危険性も分からないからそいつは虎にやられてしまう。

 たとえ褒める意味合いであっても、人の見た目をどうこう言うことはタブーとなりつつあるし、その見た目から想起される人の性自認についてあれこれ言うことは、すぐに否定的な意味をはらむ世の中だけれど、小説は言葉で表さないとどうにもならない分野のものだ。

 小説では登場人物の髪の長さや表情の疲れ、肉付きの良さなどを説明しないと、その人の像が立ち上がってこない。あまり詳しい描写はうざったいが、さりとて何も描写がないと、人物像をイメージするとっかかりすらない。倫理的には「人を見た目で判断しない」のが正しいのだとしても、やっぱり私達は人を見た目で判断しているし、またそうせざるを得ない。小説の描写はただ作品内における事実を書いているだけだと言っても、たとえば黒い髪を長く伸ばしている人はおしとやかだというような、読者の中にある俗っぽいイメージと完全に切り離せるわけではない。

 

 性自認の話は、どういう方向が正解か分からないなといつも思う。それは、私が一応マジョリティに属する性自認を持っているから、そう思うのかもしれないのだけれど。

 誰もが自分の性自認も他人の性自認もフラットに受け入れられる社会が究極の理想なのかなと思うが、一方で、自分を他者と区別することが、その人のアイデンティティーの確立に寄与している点もあるような気がする。マイノリティーの人全般がそうではなくて、そういう主張をしたい個人もいるだろうし、どうか私のことは放っておいてという個人もいるだろうけれど。


 またも取っ散らかっている感じがするけど、自分の整理のために続ける(最近の記事はこんなんばっかりだ。きっとすごく疲れているのだと思う。全然大したことしていない気がするのに、なんだかものすごく忙しいのだ)。

 最初に挙げた作品は、おそらく今風の名前にすることで、若者を書いているんだというリアリティを出すのが目的なんだろうけれど、その目的を追求したあまり、分かりやすさが減じてしまったという例だと思う。

 その点でやっぱり現実と小説は違っていて、小説には現実とは違う、分かりやすさについての一定のルールがあるのだと痛感する。

 それがあることで、いくら小説をリアルに描写しようとしても、わずかな作為が入り込むことになるのだと思う。作為とか言ってるけど、なんなら全部作為だし、私の中のフィクションなんだけど。

 その分かりやすさについての一定のルールは、ただ小説が、文字によってのみ表現されるものであるから存在するのだよね。文字だけでは伝わりきらないから、そういう不文律のルールがある。

 難解な現実よりもぬるいのだ、小説は。

 困ったね。そういう世界でしか生きられなさそうな自分が。

 もしかしたら、自分の子供の世代なんかは、範囲は限定的にせよ、境目が溶けてる領域もあるのかもしれないのに。そうなったら、もう小説は要らなくなるかもしれないよね。……ああ、君はそういう小説が読みたい、だって?

サポートいただけたら飛んで喜びます。本を買ったり講習に参加したりするのに使わせて頂きます。