無になること
このところ私の感じる感覚に大きな違いがありました。その結果、以前にも増して日々の生活に幸せを感じます。満たされています。そのことについて触れていこうと思います。この話は自分の中でもまとまっていないのですが、文字に起こして認知を進めていこうと思います。今後も繰り返し表現してみて、私自身が何のテーマについて言わんとしているのかを模索したいところです。
1.感覚の変化 ~フローから無心へ~
最近の私は「満たされて」います。これまでも「満たされている」と表現し続けてきましたが、その「満たされている」とは少し異なります。では今表現している「満たされている」はどのような状態なのかを書いていきます。
これまでの私はいわゆる「フロー」に入って「満たされている」を感じている状態でした。時間が一瞬で経過し、周囲の音だって気になりません。自分がリラックスしつつチャレンジとスキル、日本語でいえば挑戦と能力のバランスがちょうどいいことに取り組んでいるので、一瞬一瞬で自分が次に何をすればいいのかイメージがつきます。大切なことなのでもう一度言いますが、私は「フロー」とは挑戦と能力のバランスがちょうどいいことに取り組んでいるであると捉えています。
フローは「今」の感覚で過ごしているとも表現できるかもしれません。一瞬一瞬で自分が次にどうするのかを閃きます。閃きの連続の中にいます。だけれども、そこには「自意識」はありません。エゴがありません。「ああしてやろう」「こうしてやろう」を狙いをつけていないのです。気づいたらカラダが動いていて、それに従っているというカタチです。これを「オートパイロット状態」と呼ぶ人もいます。無意識の上にあるとも表現できます。先ほども言いますしたが、私はこれを「エゴのない状態」、「自意識がない状態」と言うとしっくりきます。ただ、人によっては「気づいたらカラダが勝手に動いてた」で納得する人もいるかもしれません。これまでの私は「子供が野原を気づいたら駆け回っている状態だ」とも説明してきました。子供が無邪気に走り回っている時に「どうして走り回ってるの?」と聞いても「走りたいから」としかこたえようがありません。気づいたら走ってたのです。そこには「エゴ」はありません。「うまく走ってやろう」とか「速く走ってやろう」みたいなことは考えてません。そこには自意識がないのです。無心でいるのです。この状態を「行動」と「行為」と言う言葉でも説明したことがあります。「行動」は「自意識」がある状態で、ほとんどの人がとっている状態だけれども「行為」は「自意識がない状態」であると。子供が無邪気に走り回っているのは「行為」だと。今回話している「フロー」も「行為」であると。より満たされるためには「行為」の時間を多く持つことが秘訣であると語ってきました。世の中では「フロー」と呼ばれる状態は、ここで言う「行為」であり、「オートパイロット状態」であり、「エゴがない状態」「自意識のない状態」なのです。これがかつての私が「満たされている」と定義している状態でした。
最近の私はもう1つの「満たされている状態」を発見しました。認知しました。気づきました。それは「無になること」です。極めて先ほど説明した「フロー」の状態に似ています。世の中ではこれらを同じものとして扱っているケースもあるなと感じます。瞑想なんかがそうです。瞑想は「フロー」の具体例として扱われる場合もあります。しかし、私はここで言う「満たされている状態」の「無になること」はフローとは異なる状態だと思います。なぜなら「フロー」を発動させる条件である「挑戦と能力のバランスがちょうどいいこと」が成り立っていなくても、「無になること」はできるのです。この状態こそいかなる人間の行動でも「無になること」ができます。この状態の中にいればいるほど、結果的には「自分は大丈夫」という感覚だったり、「感情に支配されない」「衝動的にならない」という特徴が見られます。まだまだ分かりにくいかと思いますが、何を言わんとしているかと言えば、最近の私は「無になって」「満たされている」を感じている状態です。個人的には「フロー」よりも「無になっている」方が「より満たされている」と感じます。「フロー」の時は何かに取り組まないと「満たされ」を感じない状態でしたが、「無になっている」状態の方は、いつでも「満たされ」を感じます。また、フローでも「無心になっている状態」と書きましたが、その「無心」の状態と感じる感覚としては極めて近いです。しかし、2点違いがあり、1つは先ほど述べたように「挑戦と能力のバランスがちょうどいいこと」が成り立っていなくても無になりえるということです。お手洗いに行っている時でも「無」になり得ますし、お茶を飲んでほっこり一息ついている時でも「無」になり得ます。お手洗いもお茶を飲むことも挑戦せずともできることです。そこには目指す方向性なんてありません。挑戦のように進む方向がありません。狙いがありません。また能力も必要ありません。そもそも「できること」を求められていないので、何かを達成しようとしていないので、力むことなく取り組めるのです。「無心」の状態のフローとの違い2点目は時間の感じ方です。時間の流れ方は早くなる、つまりは一瞬な時もありますし、永遠かのようなとても長く感じることもあります。自分の状態によってその時間の流れ方は変わるのですが、自分が心の奥底で求めている方の時間の感じ方の方に偏るように思います。この何だかよくわからない「無になる状態」が具体的にどんなものなのか、実体験を次に書いていこうと思います。
2.【実体験】カラダに意識をチューニングして無心になる
私はこのところ90分間運動することを習慣にしています。具体的には20分程度ストレッチをした後に、50分有酸素運動をして、残りの20分でストレッチをしています。なぜこんなにたっぷり運動する時間をとっているかと言えば、私が「臨月妊婦」だからです。もうすぐお産を迎える予定なのですが、運動した方がいいなと思い、生活の中に運動を意識して取り入れ始めたことがきっかけです。最初のうちは10分「運動しよう」と運動するのも難しかったです。むしろ「意識してやろうとすればするほどできない」という状態だったのですが、そこは持ち前の「根性」で「頑張って渋々運動をしている」という生活を送っていました。妊婦というのは不思議なもので、びっくりするくらい「思い通りにいかない」という状態に直面します。たとえば「悪阻(つわり)」です。私の場合、悪阻は2ヶ月程度続きました。例えるならば、2ヶ月間、ずっと酷い二日酔いのような状態でいました。ずっとその感覚でいました。他に例えるならば船酔いのようなものです。他にも例えるならば大人になってから39.5度の高熱に見舞われているようなものです。これが2、3日だったら、だるい、疲れた。今だけだから耐え凌ごう、という感じでやり過ごしたのかもしれませんが、私の場合はこの「二日酔い」状態が2ヶ月も続いたので、2ヶ月経過した頃には生きる気力を失っていました。頑張ろうと思っても当然、体調が悪くて頑張れないですし、まともに考えるエネルギーも湧いてきません。意欲も湧いてきません。いわゆる「弱っている」状態でした。そのような辛い状況を経験したので、「もうこんな状態には絶対になるまい」と悪阻が回復した頃には心に誓い、というか決心し、というか、一生経験したくない!という一心でせめてもの「運動」を始めたのです。「自分の意志で動けるって、なんて恵まれているんだ!」と感じる世界線です。「人は失ってから気づくものだ」なんて言いますが、私はこれを生まれて初めて体験しました。幸運にもこれまで大きい病気せず生きてきたので、こんな苦労は初めてでした。自分の意志で動けて当たり前な、いわゆる健康な人の精神の上で生きてきたのです。しかし生まれて初めて「自分の意志とは関係なくどうしようもならない状態」に直面し、意識が変わったというかたちです。悪阻がなくなって「普通」な状態に戻ると、初めの決心はどこへやら「運動めんどいな」と思うことも多々あったのですが、「いやーもう懲り懲りだ!」という感覚で臨月になった今でもなんとか運動をしていたのです。
長くなりましたが、私はこの渋々な運動生活の中でカラダに意識を向けることを覚えていきました。最初は運動が億劫だったので、隣でYoutubeをつけて好きな動画を見ながら運動したり、好きな音楽を流しながら運動していました。しかし、ある程度続けているとYoutubeや運動が「邪魔かも」と感じるようになりました。運動に集中したいのにYoutubeや音楽がその集中を途切れさせるのです。音楽も流しているのですが、途中から聞いてない、もはや聞こえてない状態になるのです。これは「フロー」に入っているとも言えるかもしれません。集中していて、集中している以外の事柄が「ノイズ」に感じられるのです。「脳がbusyな状態になっている」とも言えるかもしれません。Youtubeや音楽が「脳がbusyな状態になるきっかけになる」のです。それらをやめると、「スン」と再び元の集中した、いわゆる「フロー」のような状態、いわゆる「無心な状態」に戻ることができるのですが、私はカラダに意識をチューニングして無心になることを運動を通じてしていたのです。
この運動は私にとってはキツいものではありません。主にストレッチや歩くといったことをしているので、無理なくできるものです。そもそも妊婦なので、無理のないことをせざるを得ないということもありますが、頑張らなくともできるものです。先ほども書いたように運動を始めるには「やろう!」と奮起する「頑張る」が発生しますが、やっていること自体には「頑張る」ことがないのです。何度も言いますが、私はこれまで「フローに入ることがより満たされることである」という情報を発信してきました。これを「無理せずできることをすることだ」と表現したりもしました。しかしこれまで私が提唱してきたことには「狙い」や「方向性」がありました。取り組んでいるうちにイメージが閃き、何かの方向に歩んでいるのです。それではこの「無心」とは何なのでしょうか。
3.【引用】無心になるとは
この「無心」の感覚は「瞑想」で説明されているパターンが多いなと感じます。私はたまたま「運動」で初めて感じることができましたが、世の中ではこの状態について、整理されているものが少ないと感じます。しかし瞑想はやったことない人も多いでしょうし、正直「瞑想」の「無心」って何なのよ?となると思います。言い換えれば、少し前に流行った「マインドフルネス」で「無心になる」と同じことを指しているのですが、これもちょっと「フロー」を混ぜて説明されていたりもしますし、正直、分かりにくいのではないかと感じます。私は分かりにくいなと感じていました。そんな中で、無心になるとは、をいい感じに表現されているな、同じ現象について述べているなと感じるものがありますので、共有します。こちらの動画です。
日本語の全文はこちらにもあるので、こちらの方が分かりやすいかもです。
こちらはアメリカの幸福学者が「There's more to life than being happy(幸せを目指すだけが人生ではない)」というタイトルでスピーチしています。こちらでは人が幸せを感じる(人生を意味のあるものにする)軸とは「つながり(belonging)」「目的(purpose)」「超越(transcendence)」「ストーリーテリング(storytelling)」であると語っています。ここでの「超越(transcendence)」こそが、私が今回、言わんとしている「無心になる状態」です。
スピーチの中で超越(transcendence)は次のように語られています。(直訳をそのまま持ってきました)
注目すべきは「c」は「日々の喧噪から ふと離れて 自我という感覚が消え去り より高次の現実と 一体になる感覚に陥ります」という説明がされている点です。そして次のように続きます。
「教会の礼拝のときに 経験する人もいます」
「 書くことでその状態になります 」
「時には あまりに入り込んで 時間や場所を忘れてしまうほど」
ここで言われている具体例は「フロー」ではありません。受験勉強のように「集中して時間を忘れてたわ!」なんてこともありませんし、スポーツのように「時間があっという間だったわ!」なんてこともありません。演奏中に「無心で演奏してたら、演奏終わってた!」なんてこともありません。受験勉強やスポーツ、演奏のことを「日々の喧噪から ふと離れて 自我という感覚が消え去り より高次の現実と 一体になる感覚に陥ります」とは言わないのではないかと思います。そんなスピリチュアルな気配はない、少し大袈裟なのではないかと感じるのです。(いや、この感覚がある人ももちろんいるとは思いますが、日本で生まれ育ち、生活してきた人にとって「より高次の現実と 一体になる感覚」なんて言われてもピンとこないのではないかという話です。)
4.無心になる時間をつくったことの効果
私はサラリーマン時代、学生時代なんかは「フロー」の状態にいかになるかということを追求してきたように思います。言い換えればその状態に入ることが、日常生活の中に「生きがい」を感じる唯一の手段だったのです。「今日は充実していたな」と感じるためには私は「フロー」に入る必要がありました。集中する必要がありました。しかし、サラリーマンをしているとくる日もくる日も働いて、頑張れない日だってもちろん出てきます。「フロー」に入る状況に追いやられたりします。カラダもココロも疲れたりします。「自分は何のために頑張っているんだろう」と「虚無感」を感じたり、なぜかやる気が出ない「無気力感」を感じたりします。そうして「フロー」に入っていると思えていたことは次第に「没頭」へと移り、フラストレーションを発散する「衝動」へと変わり、情緒不安定な日常を作り上げます。そうして「こんなはずじゃなかった」と感じる生活を送る、出口が見えないような世界線が待っているのです。私はこのnoteでその出口が見えない「虚無感」「無気力感」「衝動的」「情緒不安定」な状態について、あれこれ語ってきました。「仮面」や「囚われ」という言葉で説明してきました。結局のことろ、私は自分自身がより満たされたい!という好奇心で自分が築き上げてきた、勝ち取った、コツコツとそのために努力してきた「良い条件のあり方」を手放しました。「理系の研究者」という私にとっての安心に見切りをつけて、ずっとやりたかった、この「無心になる」をする舵を切ったのです。
そうして、やっとこさ「無心になることができた」私なのですが、その効果は次の3つです。
この効果をなぜ感じるに至ったか、どれも具体的なエピソードを述べられるのですが、ここでは省きます。正直、ちょっと上記の説明をするに至って、エネルギーを使い切ったと感じるからです。まぁ、無心になる時間を取ったら、いいことがたくさんあったのです。
5.サラリーマンの私に言葉をかけるなら
私はこの「無になる感覚」を覚えて「毎日がより満たされている」と思う中でどうすればサラリーマンだった時の私がこの感覚に包まれることができるんだろう?ということを考えています。私は頑張っても、頑張ってもずっと「フロー」に入って「無心」になろうとしていました。それで現実逃避している、とも言えるかもしれません。しかし、私は疲れ、クタクタになり、機械のように何も感じなくなり、人生楽しくないな、と感じていました。「本当にこの仕事が私のやりたかったことなんだろうか」と考えていました。社会的体裁で言えば、私は「満たされている人」でした。誰もが知っているような一流企業に勤め、仕事内容を話すと「えーすごいじゃん」以外のリアクションがしずらいことを取り組み、給与も十分もらえていました。しかし、私の心は乾き切っていたのです。その姿になるために、幼い時から狙いをつけて、そのためにコツコツと努力し、頑張りもしました。理想の姿を得て、鼻が高かった時もあります。自己実現できたと感じていたこともあります。しかし「満たされていない」という感覚だったのです。これは所謂「アダルトチルドレン」的な状態であり、自分の正直な気持ちに蓋をしてきたから起こった状態でした。ずっと誰かのために、ずっと何かを守るために、ずっと自分の気持ちは後回しにして生きてきたのです。
私の今の状態を説明するならば「アダルトチルドレンの症状を解決するためにサラリーマンを辞めて、自分の気持ちを解放する練習をしてきた」と言えると思います。本当に自分の感じ方がわからなかったので、愚直に練習してきたのです。時にはこのnoteを書き、ある時は本を書き、ある時はプログラミングをし、ある時はゲームをやる、ある時はエステに行く、マッサージに行く、というかたちで、少しずつ色んな手段で自分の心をほぐすということをやってきました。「好きこそモノの上手なれ」をやりたいと思ってきました。「無理なくできることをしたい」と思ってきました。そんな中で、最も感覚の変化があったのが「無心になること」だったのです。noteを書くことも、本を書くことも、プログラムをやることも、ゲームをすることも、私にとっては「フロー」に入ることでした。しかし、最近の私は「無心になること」を覚えました。これがアダルトチルドレンの症状を引き起こすきっかけとなる「自分は無価値である」「自分はいない方がいい」というような自分に対する罪、肯定感のない感覚を解消しました。これは結果的にです。無心になっていたら「自分は大丈夫」という感覚が大きくなったのです。何度も言いますが、これは結果的にです。私が運動をしている時に「自分は大丈夫」と思えているかと言えば、そうではありません。そんなこと考えていません。他の表現をするならば「今」に生きています。(私は「今に生きる」ということがわからなかった人なので、この表現は使いたくないですが、まぁ、そういうことかなと思います。未来に囚われてもいないし、過去にも執着しているわけではない。運動してカラダに意識がいっている、筋肉と対話、あーこの筋肉が伸びているなぁ、効いてる、効いてる、といった感覚である時、言葉にすると考えている感じですが、無心でそれを感じ取っているわけですが、その運動している時は「今」を生きています)
またもや長くなりましたが、サラリーマンの私に言葉をかけるなら、「エゴなく、楽してできて、制限のない、無になれることをやるといいよ」だと思います。「フロー」に入るようなことを避けたいので、何かエゴ(狙い)があってはいけません。これ以上何か別の自分になろうとしなくていいのです。「ゲームなんかは狙いがなくていいんじゃん?楽しめるし!」と思うかもしれませんが、ゲームも違います。ゲームは人によっては「無心になる」ことにつながるかもしれませんが、ゲームをしていて「超越(transcendence)」な感覚に包まれることはないと思います。なぜならそこには「エゴ」があるからです。「あぁしてやろう」「こうしてやろう」と常に考えます。それはゲームの性質上、何かを達成するかたちで作られているためです。「あつまれどうぶつの森」や「マインクラフト」は、クリエイティブなかたちで、心を解放するのにつながるのでは?無心になることに繋がるのでは?となるかもしれませんが、創作物がある有限なカタチになる、ゲームの性質上、何かを配置する、自由度が限られているという点で「エゴ」は生じてしまうと思います。これが音楽や絵を描くこと、油絵、水墨画、水彩画であれば、「超越(transcendence)」な感覚に包まれることはあると思います。なぜならそこには「真っ白なキャンバス」があるからです。「あつまれどうぶつの森」や「マインクラフト」のように何かのプラットフォームがあった上で、創造性を発揮するわけではありません。あくまでも0から1を自分で築くのです。その真っ白いキャンバスではどう描いてもいいのです。そのため「制限のなさ」は大切です。最後に無になれることですが、これは本人が夢中になれるなら、集中できるなら、正直何でもいいと思います。ここまで書いて思うのは、「狙いなく」と「制限のない」という条件を見つけるのが難しいのかなと思います。しかし、身の回りにはいくらでもあります。トイレットペーパーをただ積み上げてみるでもいいと思いますし、トイレットペーパーを積み上げてどうなる?みたいな大人の感覚を召喚するから、うまくいかないのです。童心に戻ることが大切です。
無心になると毎日が満たされます。なぜか色々なことがうまくいきます。これまでの自分が願っても願ってもなれなかった姿に。頑張っても頑張ってもなれなかった姿にあることができます。さらに窮屈な想いをしていた、囚われていた自分、不安を感じていた自分ではイメージができなかった、ご機嫌な生活が待っています。
この話が少しでも日常に彩りを持たせることに繋がることを想って。