
国木田独歩「武蔵野」
夏目漱石のエッセイに「独歩氏の作に彽徊趣味あり」という著作があります。
このエッセイでは、「武蔵野」にはまったく触れていないのですが、久しぶりに独歩を読んでみようと思いました。
独歩といえば「武蔵野」で、まさに武蔵野そのものを描いた小説です。
本書は以前に数回読んでいます。
今回読んで前回にもまして本書の魅力に気がつきました。
一つ目は、文章の素晴らしさです。
明治30年の作ですが、当時としてこの口語体の自然な文章は他に類を見ないのではないでしょうか。
まず冒頭部分から引用します。
(国木田 独歩. 武蔵野 . 青空文庫. Kindle 版.)
~前略~
それで今、すこしく端緒をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣といいたい、そのほうが適切と思われる。
わたし自身、武蔵野といわれるところに30年近く住んでいます。
たしかに住み始めた当初から比べると一転しています。
近くの武蔵野特有の林も今はきれいに整地されてしまい、公園となりました。
独歩が描いた100年前とは比べようはないかもしれませんが、「武蔵野の美今も昔に劣らず」は現代でもいえると思います。
広々としたこの台地そして谷に至る起伏は、毎日歩いているところでもあります。
秋から冬にかけて銀杏の落ち葉が敷き詰められます。
独歩のいう詩趣を十分に感じられます。
もう一か所引用します。
結末に近い部分です。
さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。
見たまえ、そこに片眼の犬が蹲っている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外れの領分である。
見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子に映っている。外は夕闇がこめて、煙の臭いとも土の臭いともわかちがたき香りが淀んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車の轍の響が喧しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。
見たまえ、鍛冶工の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。
わたしの住むところでも、少し前までは農家の方が野菜を安く売っていました。
生活圏と自然が融合しているようでした。
たぶんどこかでは、今も農産物を売っているところがあると思われます。
そこも武蔵野の魅力の一つなのだと、今回読んで特に気がつきました。
漱石のいう「彽徊趣味」ついて、エッセイ「独歩氏の作に彽徊趣味あり」から以下を引用します。
(夏目漱石全集 決定版 全124作品 (インクナブラPD) . Kindle 版. )
普通の小説は、筋とか結構とかで読ませる。すなわち、その次はどうしたとか、こうなったとかいうことに興味を持ち、面白味を持って読んでいくのである。しかし、低徊趣味の小説には、筋、結構はない。あるひとりの所作行動を見ていればいいのである。
漱石は、独歩の「武蔵野」にはまったく触れていませんので読んでいないかもしれません。
もし読んでいたらどう評したか興味が湧きます。
もしかしたら「低徊趣味」の極致とでも言ったでしょうか。
小説は年齢によって読んだ印象が変わります。
そんなことを再認識した本書でした。