夏目漱石「彼岸過迄」
「夢十夜」に続いて、「彼岸過迄」を初めて読みました。
漱石というと「門」や「こころ」など、正直言って観念的というか、理屈っぽいところがわたしには苦手でした。
しかし、考えてみると「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」などは、面白く読むことができます。
もっとも、「吾輩は猫である」も後半は、理屈っぽい感じになりますが、前半はわたしの好きな落語調です。
「彼岸過迄」も若干観念的なところも感じますが、それを超えた面白さを感じました。
以下に、わたしがとても面白くとらえた点をあげてみます。
一つ目は、この小説の構成に感嘆しました。
主人公の田川敬太郎は、物語の中心人物ではありません。
いくつかの物語が展開しているのですが、その聞き手のような位置です。
部外者である敬太郎を通して世の中、もっと言えば世界が描かれています。
ということは、世界はこの部外者の耳(漱石は鼓膜と表現しています。)から入ったものに過ぎないとも言えるかもしれません。
突き詰めると世界はそのようなものと、漱石は言っているのでしょうか。
二つ目は、須永市蔵と彼の許嫁の田口千代子の関係です。
許嫁といっても市蔵の母が千代子を市蔵の嫁に欲しいと申し出ただけで、正式なものではありません。
この市蔵と千代子の心理的な葛藤が、市蔵の目を通して描かれています。
幼い時から兄妹のように育ってきた二人の関係から、市蔵は結婚する気持ちはないように話しますが、そこに高木という身だしなみのスマートな男性が現れて、市蔵は嫉妬します。
この辺りは、千代子の心理が描かれているわけではないのですが、思わず市蔵が「高木はどうした」と意図しないで口に出てしまい、千代子は堰を切ったように市蔵を卑怯だと責めます。
市蔵の言葉ではなく態度でそれが分かる千代子は、なぜ嫉妬するのかと市蔵に迫ります。
わたしを愛してもいないのになぜ嫉妬するのかと。
この場面は、その臨場感に圧倒されゾクゾクしました。
その後、市蔵は悩みを叔父の松本に相談しますが、実は、市蔵は父親と女中との間に生まれた子であることを叔父の松本から告白されます。
そのために母が姪に当たる千代子を嫁に欲しがっていることが分かります。
三つ目は、登場人物の描き方が的確です。
一人一人が実にリアルに描かれています。
千代子の父の田口の事業家としての磊落さと意外と細やかなところ、松本の気難しさや優しさなどですが、わたしが面白く思ったのは、敬太郎が自分の身の振り方を占ってもらおうとして道々占い師を探します。
そうすると、文銭占いと看板を掲げた占い師を見つけて、占ってもらうこととしました。
その占い師はお婆さんなのですが、そのリアルな描き方には、漱石という人の小説家としてのなみなみならぬ技量を垣間見た気がしました。
以下に、この小説の末尾に書かれた敬太郎についての文章を引用します。
(夏目 漱石. 彼岸過迄 青空文庫. Kindle 版)
この後に展開する小説、「行人」、「こころ」を暗示しているような気もします。
この小説の題名「彼岸過迄」は、彼岸過ぎまでの新聞連載になるからというほどに軽い気持ちでつけられています。
しかし、この末尾を読むと、漱石の小説に対する底知れない奥深さを感じざるを得ません。