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独学のプロレス

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独学のプロレス

ウルティモ・ドラゴン校長の自伝
「独学のプロレス なぜ究極龍は世界で称賛されたのか」
遅まきながら読みました。困難に立ち向かい克服する勇気と希望。まさにプロレスラー「ウルティモ・ドラゴン」らしい一冊でした。

たった3か月弱とはいえ闘龍門MEXICOに入門して、メキシコで過ごした私としては懐かしいことも書かれていました。そういえば向こうに渡ってすぐ、アレナ・メヒコでルチャ・リブレを観戦させてもらったり、その翌日には闘龍門の自主興行のために準備に奔走したりしたこともありました。アレナ・メヒコの急な階段を横断幕担いで駆け上がった時はアタマがクラクラしたし、白く塗ったスノコのようなものが敷かれた通路がモップ掛けしたばかりで濡れていて、足を滑らせて思いっきりスッ転んだ時に見上げた天井がゆっくり回って見えたのもハッキリ覚えています。私がただ一度だけアレナ・メヒコでとった受け身で、2005年5月14日に開催された大会の、開始前のことでした。

校長は私と同じ愛知県出身。名古屋を、愛知を、しまいには日本を飛び出して活躍する姿を見て憧れた……のではなく。御多分に漏れず新日本プロレスのビッグマッチで見たのがきっかけでした。リアルタイムではなく、レンタルビデオ屋さんにあった闘魂Vスペシャルか、ベストオブスーパージュニアのVHSで初めて見て。あの肩パッドがカッコ良くって。
あと、ド派手なピンクのコスチュームも大好きです。青や緑のラメでキラキラしているのもカッコいいけど、自伝の中にもあるように校長の心にあるルチャの原風景らしいド派手で眩しいピンク色もまたよくお似合いでした。もう着ないのかな…?

それと同時にルチャ・リブレはラヨ・デ・ハリスコJr.を見て興味を持ち、それまで単に
初代タイガーマスクの敵
だったメヒコのルチャドールにも注目してビデオを見るようになりました。
今でも我が家に猛虎伝説3rd dimensionのVHSが残っています。
そこには初代タイガーマスク時代の佐山聡さんと熱戦を繰り広げるフィッシュマン、ウルトラマン、そしてネグロ・ナバーロさんの姿が。

まさかこのネグロ・ナバーロさんが、2005年に渡墨した私たちの先生だとは夢にも思いませんでした。最初に道場で「コーチのネグロ・ナバーロさんです」と紹介された時も頭の中で
(うわあああネグロ・ナバーロだ!!!!!!)
と大興奮していたのを覚えています。お水を持って行ったり、昼食をお出しすると目をクリっとさせて
「グラシアス!」
と元気よくお礼を言ってくれる優しい人でした。体や手が岩みたいにゴツゴツして分厚かったっけ。
そんなネグロ・ナバーロさんは、校長のデビュー戦の相手でもあったとか。年輪を感じさせるエピソードですね。

年輪と言えば、本の中に校長が10本のベルトを手にしてポーズを取っている写真が出てきますが、あれも確か寮の階段に飾ってあった気がします。2階に上がってリビングに入るところだったような…?
他にも校長室には、校長が表紙になった雑誌や写真が飾ってあって。それが幾つかどころかズラーっと並んでいたのも覚えてます。校長室は壁や天井が白くてオシャレで……そこでデスクに座った校長に中途退学を申し出ると
「そうか……でも君は、まだスタートラインにも立ってないんだぞ?」
と言われたことも覚えています。

そんな校長にも、あの時期いろんな出来事があって……メキシコの道場も最終章に差し掛かっていたことなんか当然、私なんかにはわからなかったし言われても理解なんか出来なかっただろうけれど。
あの時期の、あの場所に、ほんの少しでも居られたことが、今まだこうやって思い出せて、本を読むたびに記憶の扉がバンバン開いてゆく。

ああ、あれは自分がプロレスラーになりたいあまりに作り出した妄想でも創作でもないんだと、今でも思わせてくれる。

メキシコから日本へ、そしてまたアメリカ、メキシコ、さらに今度はヨーロッパに向かう。
大原はじめ選手がメキシコ時代、アレナ・メヒコでのトレーニングに参加していた(それ自体が凄い事)のは知っていたけれど、校長と一緒に各地を転戦していたことは初めて知りました。
今回、この感想を書くのにポスターやマスクを引っ張り出そうと開けたハコの中に、大原さんのメキシコ時代の名刺が入っていました。

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ご本人は覚えていらっしゃらないかもしれないけど、実は大原さんから牛乳瓶の形の目覚まし時計も頂いて、それもまだ我が家で大事に仕舞ってあります。

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チャプルテペク動物園や日本食品店(ミカサさん)にも、大原さんが連れてって下さったっけ。
大原さんは厳しいけど明るくて優しい先輩で、私もよく怒られたり励ましていただいたり、とてもお世話になりました。

校長はフリーランスとなり、再び各国を飛び回った後まさかのドラゴンゲートに合流。今も変わらず活躍中で……最近では闘龍門再会というリユニオン大会もあり、第二回の開催が発表された(2022年6月3日:後楽園ホール)ばかりだ。
校長はドラゴンゲート最高顧問となっても、私の中では永遠に校長だし、実際やっぱり校長と呼ばれることが今のところ一番シックリ来るのではないかなと勝手に思っております。

本の最後に、校長からのメッセージがある。
プロレスが好きな人たち、皆プロレスに出会えてよかったと思わないか!皆がプロレスのことを信じている限り、プロレスは絶対に皆を裏切らない。人生は誰だって一度きり、だからこそ大好きなものを精一杯楽しんでほしい、と。

私はプロレスを諦めたけど、多分、プロレスのことを信じていたと思う。ずっと。
それはやっぱりプロレスを信じて、自分を信じて突き進む、闘龍門メキシコ時代の先輩でプロレスラーの松山勘十郎さんが居たからだと思う。
勘十郎さんのプロレスを信じることは、私の過去と原点、プロレスを信じることとイコールであり続けたから。

プロレスは厳しい世界だけれど、信じて見つめていると、とても優しい。
メキシコに渡る前夜、蒲田のビジネスホテルに置いてあった聖書を開くと、こんなことが書いてあった
「many are called, but few are chosen」
招かれるものは多いが、選ばれるものは少ない
という意味のフレーズだった。後になって、私はコレを自分のことだと思って、さらに言えば私は選ばれようとすることからも降りてしまったのだと思った。

プロレスラーになりたかった佐野君は、その後バンドを組んだりネットで小説を発表したりと「プロレスが好きな誰か」になりたくてずっと何かし続けていました。
そして2018年には運よく宝島社の編集さんに見つけてもらい、小説家としてデビューすることが出来ました。
そのことを、きっと校長は忘れてしまっているだろうけれど、私なりのトピックスとして校長にご挨拶したかった。だけど、その日に私は、校長と座長の一騎打ちの日に限って私は、その場に居ることが出来なかった。
私は初めて「プロレスを裏切ってしまった」気分でいっぱいだった。プロレスから逃げたことはあっても、ずっと好きだったはずのプロレスというものが、私の心の中で音を立てて大きく揺らいでいた。そのぐらい、あの試合は絶対に見届けたかった試合だったし、その時の自分の状況の不甲斐なさや後悔で頭がいっぱいだった。
それから暫くたって、プロレス自体の開催も出来ない日々が続いていって。そのなかで、やっぱりプロレスを好きでいたい。好きでいていいんだと。ずっと生きてプロレスを楽しみたいと、今また思えるようになった。
それはちょうど、この本を読んで、校長からのメッセージに差し掛かるのとほぼ同時のタイミングだった。
いい時にいい本を読んでいた。

やっぱりプロレスっていいな、プロレスラーってかっこいいな、ウルティモ・ドラゴン校長はプロレス少年の憧れで、本当に龍のように居るだけで誰かを時に恐れさせ、時に勇気づけ、導いてゆくのだなと。改めて感じました。

読んでよかった、プロレスが好きでよかった。
プロレスが好きな小説家になろう。
いつまでもプロレスが好きでいよう。

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ダイナマイト・キッド
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